青海鉄道
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本項では、南西急行の前身3社のひとつである青海鉄道の、経営統合までの概況を解説する。現在の青海線の状況については「青海線」を、そのほか関連項目として「京神電鉄」「水澄鉄道」も参照されたい。 |
1.青海鉄道の沿革
青海鉄道は、青海半島在住の有力者が中心となって大正14年に設立された。主な目的は、半島の観光開発、農産物(主にミカン)の輸送と、青海港発着の貨物輸送である。
昭和2年3月に美咲~八浦間、昭和3年5月に八浦~鶴神間、昭和5年10月に鶴神~青海ヶ浦間が開業した。当初から直流1500Vで電化され、省線(南街道本線)との直通運転を想定していたため線路規格も高かった。当初から電化されていたのは、南街道本線がすでに電化され、青海鉄道が蒸気運転では直通運転を拒否されるのではないかと一方的に思い込んだのが原因とされているが、資料が散逸した今となっては真相はよくわからない。
昭和18年、当時の政府の陸上交通統制政策により八浦鉄道・弦崎鉄道・水澄鉄道と合併し南関東鉄道となったが、この会社は今でいうところの持ち株会社のようなもので、経営を統合した効果は全く無かった。終戦後の昭和20年12月には再び分離することになったが、このとき分離しなければ南西急行は現在とは違った道を辿ったかもしれない。
戦後、美咲周辺の各地に点在していた軍用地が民間に払い下げられて住宅開発が活発化したため、昭和28年12月に美咲~八浦間を複線化して乗客増に対応した。昭和29年には国鉄からの直通準急「青海」の運転が開始され、青海鉄道は大観光地青海半島の交通の枢軸たるの地位を確立したのである。
ところが、昭和30年代の青海鉄道の企業活動に目立ったものは見られず、同社にとっては明らかに停滞期と言えた。彼らの尻に火がつくのは、昭和40年の「X県鉄道網再編計画」や昭和43年のヨンサントオ協定の事前協議において、「美咲総合駅」のプロジェクトを自分たちが主導しなければならないことを自覚してからである。
2.青海鉄道の設備
(1)線路配線

青海鉄道は、美咲~八浦間が複線、八浦以遠が単線であり、飛田駅は優等列車同士が行き違いをするために長大な交換設備を有していた。基幹車両基地は現在の新八浦駅(もちろん当時は当駅はまだ無かった)付近にあり、鶴神温泉駅には電留線、青海ヶ浦駅には優等列車の仕立て整備ができる基地が併設されている。
国鉄との連絡設備は①美咲駅構内と②北方駅構内の二か所にあった。前者は国鉄美咲駅の貨物側線と接続されていたが、入換で行き来する方式であり旅客列車の直通運転には不向きで、戦後はほとんど使われず貨物ヤードの廃止に伴って昭和45年に使用停止された。後者は旅客列車用で、昭和55年9月まで南街道本線との直通運転に使用された。
(2)美咲駅


駅そのものは国鉄美咲駅と貨物ヤードを挟んで反対側にあり、乗り換えは不便を極める。それを解消するため国鉄からの直通急行が運転されていたわけだが…日常的に利用している乗換客にとってはこの状況はたまったものではなかった。
美咲にターミナルを構えていた私鉄4社で最も国鉄との乗換客が多かったのが青海鉄道であった。それ故、ヨンサントオ協定に伴う美咲総合駅の計画が発表されたとき、青海鉄道沿線の自治体は文字どおり泣いて喜んだ。何に喜んだか? 青海鉄道が東京直通となること、ではなく、青海鉄道と国鉄南街道本線との乗換が便利になることに、である。青海鉄道が東京直通の大私鉄の一部になる、という計画の内容は、関係者にはまだまだ実感を伴って受け取られてはいなかったのであった。
(3)八浦駅

当駅は青海鉄道本社のお膝元であり、傍系の八浦鉄道との接続駅としても大変重要な位置づけにあった。しかし、それ故に駅の周辺は戦後すぐに都市化してしまい、無秩序な街並みの中に手狭な拠点駅があるという望ましくない発展ぶりを示すことになる。八浦市にとっては当駅付近の高架化は悲願であったが、青海鉄道当時にはその余力が無く、実現するのは南西急行発足後のことになった。高架化工事の詳細は別項を参照のこと。
3.青海鉄道のダイヤ
(1)東京直通急行「青海」
国鉄は昭和29年10月のダイヤ改正において東京から青海鉄道・水澄鉄道へ直通する準急「青海」「水澄」の運転を開始した。使用車両は80系電車のオール三等車6両編成で、静浜へ向かう準急「駿河」(9両編成)の付属編成という扱いであった。設定本数は「青海」「水澄」共に5往復ずつで、この本数が昭和55年まで維持されている。運転時刻は、下り列車で見れば東京駅08・10・12・14・16時台の「駿河」が「青海」を併結し、東京駅07・09・11・13・15時台の「駿河」が「水澄」を併結する、という形であった。
準急「青海」は、「駿河」の静浜方に連結され、下り列車の場合、国鉄美咲駅で切り離されて「駿河」に先行し、北方の連絡線を経由して青海鉄道に乗り入れた(乗務員の交代は国鉄美咲駅で実施)。本列車は青海鉄道線内では急行を名乗り、急行料金も徴収した。また、青海鉄道線内のみを利用する乗客は国鉄美咲駅において青海鉄道の乗車券・急行券で入出場できる特例が設けられていた。
東京からの直通列車の設定は、青海鉄道の悲願であった。また、同社は国鉄車の片乗り入れではなく相互乗り入れを望んだが、当時の同社は80系クラスの車両を用意できず、結局、直通運転の終焉まで実現しなかった。
昭和34年6月には、「青海」「水澄」の車種が153系に変更され、乗客から強く要望されていた二等車が連結されて7両編成になる(併結相手の「駿河」は1両減の8両編成になった)。昭和41年3月には国鉄の料金制度の改定によって国鉄線内も「急行」となった。
(2)ヨンサントオ改正

昭和43年10月、国鉄のいわゆるヨンサントオ白紙ダイヤ改正によって急行「青海」「水澄」は共に車種が165系に再度変更される。これは、国鉄が南街道本線に特急「富士」を大幅増発するに際し、特急と急行で並行ダイヤを組むには153系では性能が不足するためである。つまり、国鉄の都合というわけだが、当時は青海鉄道にしろ水澄鉄道にしろ165系をベースに設計した車両を一般列車用に投入しており、153系は両社線内で足を引っ張る存在になりつつあったので渡りに船と言えた。

図は、国鉄に合わせて青海鉄道もダイヤ改正を実施した際の日中の運転パターンである。この改正では、急行「青海」と噛み合わせとなるよう2時間ヘッドで準急列車(特別料金不要)が新規設定された。
普通列車は、単線区間となる八浦以遠では1時間ヘッド運転(準急と合わせると2時間に3本運転)となり、輸送力不足を補完するためこの列車のみ8両編成となっている。美咲~八浦間は複線化の効果もあって15分ヘッドと現在とさして遜色の無いサービスが提供されていた。
(3)ヨンゴートオ改正

昭和45年10月のダイヤ改正では、後述する事情により、自社線内のみ運転の「特急」が新設された。この特急は特に愛称はつけられず100番台の便番号で呼ばれ、全車指定席とされた(私鉄の特急列車への自由席の設定は規制されていたため)。特急料金は、「青海」の急行料金+指定席料金と同額である。運転本数は5往復で、急行「青海」と噛み合わせて1時間ヘッドの運転となった。同時に、柏倉駅が陽光高原駅に改称され、同駅付近の観光開発が開始されている。また、この改正によって青海鉄道からは一時的に特別料金不要の速達列車が無くなり、廉価を望む乗客層からは不評を買った。
ところで、このころの青海鉄道のラッシュ時間帯のダイヤであるが、美咲口で8両編成の普通列車が10分ヘッドで運転されるのみで、「地方都市美咲への通勤輸送」以上の需要はなかった。以後は、車両(2000系)の増備に合わせて編成を増結するダイヤ修正が主となる。青海線が躍進するのは、湾岸新線が全通し東京への通勤路線となってからのことである。
4.青海鉄道の車両

青海鉄道の車両の近代化は、昭和40年の100系電車の登場に始まる。本形式は、国鉄165系電車をベースに同社向けにアレンジした車両で、旧型車淘汰のため4両×24編成の投入が急がれた。しかし、2扉クロスシートという仕様が仇となって朝のラッシュ時の運用に支障をきたすという事態になり、後年、三分の二が3扉車(4200系)に改造されることになる。

また、昭和43年10月のヨンサントオ協定締結を受けて、京神電鉄・水澄鉄道との経営統合に向けた業績アップが急務となり、8000系を水澄鉄道と共同開発して(昭和45年10月のダイヤ改正で新設された)特急に4両×8編成を投入している。

さらに、経営統合後の直通運転開始に向けて、3社の共通仕様車2000系が昭和47年度から投入された。経営統合は昭和51年4月。その直前の昭和50年度末の時点における車両の陣容は4200系(旧100系)24編成、2000系10編成、8000系8編成で、合計168両。