美咲総合駅
toratora.wikiは2023年3月31日をもってサービスを終了します。
美咲駅は、X県の交通政策の目玉として、美咲市内各所に分散していた私鉄各社のターミナルを統合する形で計画された。その経緯は別に述べるとして、本項では当駅の構造の変遷を概説する。 |
1.昭和43年当時の美咲駅

もともと美咲駅は、図1-1のように、広大な国鉄駅の周辺に4つの私鉄路線がターミナルを構えていた。相互の乗り換えに頼るべきは長大な連絡通路1本のみという有様である。しかも、この通路は国鉄駅の改札内連絡橋を兼ねていたが、幅員が狭くて改札口を設けられず、国鉄と青海鉄道・弦崎鉄道の乗り換えにはかなりの遠回りを強いられた。
昭和43年10月にヨンサントオ協定締結が発表されたとき、総合駅建設のプランにX県民・美咲市民は大いに湧き返った。が、同時に発表された昭和51年という完成予定時期は「まだまだこの不便が続くのか」と利用者をウンザリさせたのである。


2.総合駅着工

図2は昭和46年当時の美咲駅である。いわゆる客貨分離施策により国鉄駅の貨物取扱機能は美咲港駅に移転され、貨物ヤードが更地化された。これにより長大な連絡通路が新駅建設の支障移転工事によって一部改造されている。この構造変更で、青海鉄道の駅舎は弦崎鉄道からの乗換客も中を通るようになり、国鉄南街道本線との直通運転も不可能になったため、混雑が激化して大変な不評を買った。

国鉄美咲駅と青海鉄道美咲駅の間には広大な貨物ヤードがあったが、この時点では設備はすでに撤去されている。このヤードは市街地分断の元凶として美咲市民からは忌避されていたが、大幹線南街道本線の貨物拠点として輸送上大変重要であった。
昭和33年に水澄鉄道が美咲乗り入れを果たしたころにはすでに移転の計画が取り沙汰されており、水澄鉄道側は館川町駅から都心寄りの区間を仮線で開業させて、 より利便性の高い設備に改良する機会をうかがうことにしていたのである。そのため同区間は単線になっている。
3.自由通路使用開始

昭和49年12月、熱望されていた自由通路と国鉄駅の橋上駅舎が使用開始されて利便性は飛躍的に向上した。国鉄駅の旧駅舎と連絡通路は、次の工事ステップに向けて即座に撤去が始められている。橋上駅舎は半分しか完成しておらずコンコースは大変な混雑となり、課題はまだまだ残っていた。
4.総合駅使用開始

当初の完成予定から1年以上遅れて、昭和52年秋に総合駅が使用開始された(図5)。
切換は段階的に行われ、まず10月3日に青海線ホームを使用開始。続いて10月10日には水澄線が乗り入れた。ちなみに、昭和51年4月に湾岸急行電鉄・京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道が合併して南西急行電鉄が発足しており、高架駅部分は開業当初から南西急行の駅であった。
また、湘南電鉄と弦崎鉄道は翌月の5日に合併して南武鉄道となり、湘南電鉄側から地下駅部分に乗り入れを開始した。しかし、弦崎鉄道側は、工事の遅れから同日の直通を果たせず、両線は当駅で乗り換え接続の形となった。
国鉄駅は、未完成だった南側のコンコースと西側の新駅舎が完成し、構内の大混雑が解消された。また、旧駅舎に直結されていた第1ホームが島式ホームに改造されて着発線が1線増設されている。これは、将来の南街道本線成原~美咲間複々線化(完成は昭和60(1985)年7月)に備えたもので、10月1日に線路番号が11番線~16番線に振り直された。

10月3日の青海線切換は、上下線の線路を同時に振って新線に接続するという力技で行った。青海線は旧駅が2面4線であったのに対し、新駅では1面2線に縮小されてしまい、翌年5月の湾岸新線部分開業までホーム不足に悩まされた(その機能補償として桂木町新駅は2面3線で設計されていたが、仮線が支障して1番線ホームが造れなかった。ちなみに、当時の地上側の桂木町駅も仮ホームでの営業であった)。
水澄線側は新線と旧線を分岐器で振り分ける方式であり、事前に信号試験や訓練運転を行ったため、10月10日の切換当日の施工はほとんど無かった。なお、青海線側も新駅の2・3番線間のシーサスポイントを通じて水澄線側から車両を入れて桂木町(新駅)まで試運転ができた。水澄線の美咲(旧駅)~館川町駅間は単線であり、新駅への切換で複線化されて輸送上のネックが解消した。
また、この線路切換は、南西急行電鉄の経営統合の手続き上も大きなイベントであった。青海線・水澄線の運賃が通算化され、両線の全駅の運賃表が新しいデザインのものに掛け替えられたのである。勿論、両線を跨る利用客は極少数であったが、関係者に経営統合を実感させる効果は大きかった。美咲総合駅は南西急行にとって経営統合の象徴として(開業前から)重要な存在であったのだ。
5.湾岸新線開業

総合駅の使用開始後、青海・水澄・湘南の各線の旧駅は大急ぎで撤去された。
昭和53年4月1日、旧弦崎鉄道側の地下線が使用開始され当駅で南武鉄道全線が直通化された。旧弦崎鉄道の線路は当時の美咲市内で最大の邪魔者と認識されていたので、地下化の完成は大いに歓迎された。
一方、南西急行側は少し遅れて昭和53年5月20日に湾岸新線の美咲~新成原間が暫定開業、その後昭和55年10月に湾岸新線が全線開業し、美咲駅はようやく本来の形であるスルー型の中間拠点駅として機能し始めたのである。
図7は昭和53年の湾岸新線暫定開業から2年後、全線開業直前の美咲駅を示している。このころになると、旧4社のターミナルは全て撤去され、駅周辺の再開発が始まっている。南西急行側のペデストリアンデッキも仮設階段が撤去され本設化されているが、駅前広場のペデストリアンデッキとはまだ繋がっていない。

6.ホーム増設とバリアフリー化

湾岸新線開業後、南西急行の輸送量は想定以上に伸びて、輸送力の不足が指摘されるようになった。南西急行ではこれに対応すべく東京線増発の設備投資(東京線輸送力増強)を決定し、平成4年8月にホーム1面2線(7・8番線)を増設した。これにより、同年10月の大増発のダイヤ改正が可能となった。その後、JR駅・南西急行駅・南武鉄道駅がそれぞれ年度をずらして(これは駅構内の工事エリアを分散させるため)バリアフリー化されて図9の姿になっている。
7.エキナカ整備

美咲駅周辺は、美咲市の市街地開発の方針もあって商業地としてはあまり栄えず、オフィス街に近い状況であり、ショッピングにはいささか不便な立地であった(それ故、ヨンサントオ協定の協議の際に地元財界は別立地への駅建設を画策した)。また、駅そのものも利用者からは実用本位に過ぎて味気ないと不評であった。そこで、平成20年度から南西急行とJR東日本は連携して同駅のエキナカ開発に着手し、平成23年10月に完成、営業を開始した。
工事に際しては、2階(コンコース階)を大幅に増床し、駅施設と店舗バックヤードを整備、その後、1階の駅施設を撤去して店舗に改装するという手順を踏んでいる。JR駅側は既存の橋上駅部分の耐震補強工事が伴ったため施工が長期に及んだが、南西急行側との同時オープンには何とか間に合っている。両社のエキナカは売上面で競争するがバックヤードは共用してランニングコストを低減するスキームとなっており、同時に営業開始することが必須条件であった。
