神津駅の発展
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本項では、神津駅の発展過程を紹介する。なお、関連する「湾岸新線(現在の急行線)」建設の経緯については別項を参照されたい。 |
1.昭和33年時点

図版は昭和33年、新幹線建設が決定された当時の神津駅である。京神電鉄は国鉄駅の山側に頭端式1面2線のホームを有していたが、新幹線駅に支障することが確定し、この直後から仮駅の建設が始まった。
2.昭和35年時点 仮駅化

図版は新幹線の建設途上の神津駅を示している。京神電鉄の仮駅は新幹線駅予定地のさらに山側に設けられている。また、山側(西口)側にあった国鉄現業事務所ビルも新幹線工事に支障するため、駅の海側(東口)側に先行して建設されている。
3.昭和39年時点 新幹線開業

京神電鉄の神津駅は、昭和37年に新幹線駅(建設中)の東京方直下に設けられた2面4線のホームに切り換えられた。ただし、実際には山側の1面2線は使用されず、新幹線開業までは工事ヤードとして、その後は京神電鉄の現業事務所として活用された。
図版は昭和39年10月の新幹線開業時点の構造。すでに仮駅は撤去されており、京神電鉄線が高架化されたことで都市計画上の懸案が一つ解決された。なお、このころX県鉄道網再編計画の検討が県と関係各社との間で進められており、湘南電鉄(現南武鉄道)の地下化もすでに視野に入っていた。
4.昭和49年時点 湘南電鉄線地下化

昭和49年12月、湘南電鉄線の神津駅が地下化された。この工事は昭和43年度からX県が主導して施工してきたもので、関係者の周到な準備により予定どおりの工期で使用開始できた。一方、東口側の湾岸新線用新駅の建設は、周辺住民の反対運動による駅前の再開発の遅れから昭和47年11月にやっと着工に至っており、この時点ではまだ掘削工事の段階であった。本来の計画では翌昭和50年に完成するはずの設備である。
5.昭和55年時点 湾岸新線全通

昭和55年10月2日、難工事の末、湾岸新線神津駅がようやく完成し神津~新成原間が暫定開業した。同11月15日、乾~神津間の地下急行線が開通し、快速・急行が当駅をスルー運転する運転形態が確立。同12月10日には新宿・渋谷から青海・水澄へ直通する特急の運転が開始された。湾岸新線は旧京神電鉄区間と合わせて東京線に改称され、南西急行の基幹路線として発展することになる。
当駅の建設の遅れは関係各方面に多大な悪影響を与えたが、開業による効果は絶大であり、それは東京線の輸送力不足という形で問題化することにもなった。後年、南西急行が東京線輸送力増強プロジェクトを展開する際、急行線駅を2面4線で造ってあったことが大いに功を奏したのである。
6.平成11年時点 バリアフリー化

平成6年度から11年度にかけて、南西急行・JR東日本・JR東海の3社は当駅の改良工事を共同で施工した(南武鉄道は別枠の扱いであった)。まず、駅構内の全体的なバリアフリー化が行われ、乗り換えに多くの上下移動を伴う当駅の利便性が大幅に向上した。また、東口側のJR現業事務所ビル(JR東日本とJR東海が同居していた)が撤去され、跡地に建設された商業ビルには三越百貨店が誘致された。
7.平成18年時点 緩行線駅2面3線化

平成18年3月、緩行線駅が1面2線から2面3線に増強された。これは、当駅の運転取扱能力の不足に起因してダイヤ乱れからの回復に長時間を要するという状況を改善するためである。また、商業ポテンシャルの大きい当駅のスペースが現実には業務用にしか活用されていないという問題もあり、1階部分のエキナカ開発が併せて施工された。さらに、当駅の北西側にある再開発エリアへのアクセスを改善すべく改札口(黒沢口改札)が増設された。ちなみに黒沢とは当エリア一帯の古い地名で、隣の新神津駅もかつては黒沢町という駅名であった。