湾岸新線
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こんにちの南西急行が成立する過程において、前身たる京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道の3社を結ぶ路線として計画・建設されたのが紅林~美咲間の”湾岸新線”である。X県の県土開発構想の根幹を成すプロジェクトであったが、この工事の遅延が全線の直通化の遅れに直結した。以下にその経過を紹介する。関連項目:湾岸急行電鉄・美咲総合駅・美咲空港駅拡張・神津駅の発展・新神津駅の発展も参照ありたく。 |
1.湾岸地区開発計画

(実際には埋め立てが完了していない地区もあった)
湾岸新線建設の直接の動機になったのが、X県の"湾岸地区開発計画"である。この計画は、昭和40年にX県が県内の用地不足問題の解決を狙って神津・美咲地区の埋立地に工場や研究機関・オフィス等を誘致して新都市を構築するものとして立案・公表された。対象となる埋立地は、神津・成原・美咲3市にわたる東京湾岸地区で、大きく分けて5ブロックあった。
第1B | 現在の海浜公園駅付近で、ここには広大な緑化公園が建設される予定であった。 その後、Kozu Dizney World(KDW、のちにKozu Dizney Resortに発展)が誘致されている。 |
第2B | 現在の新長坂駅~安本駅付近で、高層住宅群を設ける計画であった。 |
第3B | 成原市の湾岸地区にあたり、高層ビルを中心としたオフィス街が形成されることになった。 後に成原ポートシティと命名され、南西急行の本社も誘致されている。 |
第4B | 現在の関浜駅・砂町駅付近にあたり、工場群が誘致されることになった。 |
第5B | 首都圏3空港計画(成田・美咲・北関東)の用地として確保されていた。 |
2.新線の計画
この計画の課題は、同地区へのアクセス手段の確保であった。当初、X県は国鉄に埋立地への新線建設を要望したが、当時の国鉄はすでに赤字経営に陥っており、南街道本線方面では昭和28年の成原複々線化以降、美咲までの複々線化も凍結状態で、湾岸地区の新線建設までとても手が回る状況ではなかった。また、この新線は鉄建公団の工事線にも調査線にもリストアップされておらず、公団による民鉄線建設(P線)事業も当時はまだ制度化されていなかった。
そこでX県は民間との共同出資による第三セクター方式で新線を建設して、開発エリアと美咲空港へのアクセス路線とすることを決めた。この路線の計画名称が”湾岸新線”である。ただし、県は自分でこの新線を運営する意思は無く、県内の私鉄会社に運営させることを考えていた。X県鉄道網再編計画の真意はまさしくその点にあって、湾岸新線の経営の受け皿を確保するために”既存の私鉄路線を直結させる”という機能を付加したのである。
新線と既存路線の接続点は、京神電鉄側が紅林、青海鉄道・水澄鉄道側が美咲であり、その途中の神津に既存駅との連絡駅を設けることとされた。つまり、京神電鉄の紅林~神津間の複々線化は、湾岸新線建設の一環という位置付けであった。
紅林~末木間では既存線の東側に新線を腹付け線増し、建設費が巨額になる高架化をやめ、交差する道路側を立体交差化する方式が採用された。線路配線は旗塚~紅林間と同じ線路別複々線であるが、途中の乾だけは緩行線と急行線の乗換の便を確保すべく方向別化されている。
末木~神津間に関しては、神津駅東口の地下新駅に乗り入れる新線を急行線とし、在来の線路がそのまま緩行線に移行した。そのため、緩行線は現在も藤田駅付近が立体化されず、踏切が残っている。
神津~美咲間では、美咲空港島内が地下区間であるほかは高架橋と長大橋梁で計画されたが、埋立地であり地盤沈下への対策として基礎の杭を深く打たねばならなかったため工事費は巨額なものになった。
また、上記の湾岸新線建設に伴って必要になる新宿駅の特急用ホームの増設が計画に盛り込まれた。
3.新線の設計
湾岸新線は軌間1067mm、全線複線電化、全線立体化、運転最高速度120km/hという国鉄の一級幹線並の規格で設計された。当時、計画が進められていた国鉄湖西線の設備仕様に似ているとの指摘もある。
しかし、有効長は工事費低減のために20m車8両を最長とすることになり、建設後の編成増強は「一切」考慮しないこととした(例えば車両基地の留置線の長さには拡張の余地が無かった)。また、信号設備も、コストダウンの要請と弱気な需要予測によって最短運転時隔を3分15秒(16本/時)として設計したため、後に輸送力が不足する事態を招いた。
ただし、高架橋等は将来を考慮した準備工事がなされているところもあって、後の工事の際に大いに役立ったのである。
4.着工
湾岸新線は、末木~美咲間と紅林~末木間では建設スキームが異なる。
前者は、ヨンサントオ協定に基づき、南西急行の前身3社とX県、地元財界が共同出資して設立した湾岸急行電鉄が自力で建設している。着工は同社設立の半年後の昭和44年4月である。
後者は、湾岸急行電鉄の設備を京神電鉄が受託で建設するという一見迂遠なやり方になった。これは、紅林~末木間が京神電鉄線の線増工事の形となり、既存路線に対する安全監理は京神が行うのが適切とされたためである。着工は昭和44年の建設省と運輸省の協定による制度改正(地方自治体の都市計画事業として鉄道の立体化工事ができるようになった)の適用を待って昭和45年9月となった。
湾岸新線の施工に際しては、事前の調査や基本設計等は会社発足の前に県の予算で実施済みだったが、設計成果物が県から同社に無償譲渡される形になるため、後に県議会で問題になったという。建設用地も、車両基地を含めて埋立地造成の時点で確保済みであった。発注手続きも、新会社設立の直後で大規模工事の施工体制を整える時間も無かったはずであるのに特に滞り無くできている。
こういった異常なまでの段取りの良さがかえって「事前に関係者間でコトを進めていたのではないか?」とX県の公共事業の進め方に疑惑を抱かせることになったのである。しかし、このナイスな段取りは最初だけで、後にオイルショックや沿線住民の反対運動等の影響を受けて工事はずるずると遅れていくことになる。
5.工事概要
(1)美咲駅
別項美咲総合駅を参照されたい。
(2)美咲空港貨物線

湾岸新線は、当初は国鉄美咲駅から北へ分岐する美咲空港の建設資材輸送用の貨物線(非電化)として使用された。配線を図2に示す。貨物列車は空港島第2橋梁を渡り、空港トンネルに入る手前で分岐して、空港建設現場に設けられた仮設ホームで建設用資材を取り降ろした。運転期間は、空港島第2橋梁の完成直後の昭和49年2月から昭和52年3月(ちなみに美咲総合駅の使用開始は10月)まで、その後貨物駅は現在のB滑走路になっており、跡形も無い。
式部町(信)~運河(信)間の連絡線は、南西急行の新車搬入のために残され、平成9年にはこれが逆用されてJR列車の美咲空港駅乗り入れに使われることになった。
(3)美咲空港駅
別項美咲空港駅拡張を参照されたい。
(4)砂町駅
湾岸地区開発計画の第4ブロックにあたり、関浜検車区への美咲方の出入口として、島式ホーム1面2線の外側に通過線を上下2線設け、ホームからも通過線からも入出区可能な配線となった。
(5)関浜工場(現関浜車両所)
南西急行の前身3社には、京神電鉄の三泉、青海鉄道の八浦、水澄鉄道の矢積にそれぞれ車両工場があり、会社統合に際しては機能を集約して効率化を図る必要があった。しかし、この3工場はいずれも会社統合後の全車両を担当できるほどの規模は無く、老朽化した設備を更新して能力強化を図るにも限界があったので、工場機能の再編の一環として「湾岸地区開発計画」の第4ブロックに大規模な新工場を建設することになった。これが関浜工場である。
旧3工場が車両の解体検査のみを行ってきたのに対し、関浜工場は大規模な改造(中間車の先頭車改造等)や場合によっては車両新製すら可能な総合工場として建設された。新会社は車両総数が1000両近い規模になるため、大量新製を除くほとんどの工事を自社で施工できるようにして、車両保有に関するコスト低減を図ったのである。もちろん、3工場の社員の雇用維持という側面もあった。
開設は湾岸新線美咲~新成原間の開業と同時の昭和53年5月で、旧八浦・矢積工場の機能を引き継ぎ、昭和55年10月には紅林工場から急行線用の車両も引き継いだ。その後、平成14年度に検車部門と統合されて関浜車両所となっている。
(6)関浜検車区(現関浜車両所)
青海鉄道・水澄鉄道はターミナルである美咲の近傍に基地を持っておらず、「ターミナルの直近」という車両基地立地の原則に照らせば車両運用は必ずしも効率的ではなかった。そのため、美咲総合駅の建設に際しては同駅をスルー運転できる位置への基地の新設が強く求められた。
立地として最も望ましいのは美咲~美咲空港間であったが、同区間には基地を建設できる用地は無く、関浜工場に併設する形で設けられたのが関浜検車区である。開設も工場と同時の昭和53年5月で、当初は所属車両が無く、青海線・水澄線の朝のラッシュから夕方のラッシュまでの間に八浦検車区・御幸台検車区の委託で交番検査を行うだけの施設であった。
その後、湾岸新線全通に伴い快速用車両と青海線・水澄線用一般車(一部)の所属基地となり、平成14年3月の車両運用の大変更後は東京線の快速・急行用の全車両を受け持つ重要基地となった。
(7)新成原駅・海浜公園駅
両駅は湾岸地区開発の第3・第1ブロックの中心と位置付けられ、2面4線の急行停車駅として計画された。建設費を圧縮するために、一部が共通設計となっている。また、湾岸新線は特急列車の高速運転が想定されていたので、安全確保のために上下本線のホームには安全柵が設けられている。
新成原駅は、関浜検車区の新宿側の出入口とできるように準備工事がなされ、平成4年に入出区線が使用開始されている。
(8)関浜・安本・新長坂・日ノ出町・狩野駅
この5駅のホーム構成は相対式2面2線で、通過列車に対する安全確保策としてホームドアが当初から設けられていた。柵からホーム端までは1.5mの間隔が確保され、ホームドアと列車の乗降扉の位置が合わなくても問題ない仕組みになっている。駅の構造物は、ホームの延長も着発線の増設も一切考慮されていない。
なお、新長坂駅は昭和57年にオープンした大型ショッピングセンター「ららぽーと」に直結され、駅の使用開始からわずか2年で大改造を受けている。湾岸新線は、基本的に湾岸地区の諸開発プロジェクトと連動するよう計算されて建設されているが、このように計画がかみ合わない事例もあった。
(9)神津駅
神津駅は新幹線の建設工事に伴い昭和37年に新幹線ホームと二層構造を成す高架駅に改築されており、これが現在の緩行線駅となっている(詳細は別項を参照)。
湾岸新線(現在の急行線)の駅は、地元への影響を最低限に抑えるため、東口の駅前広場の地下1階にコンコースを、地下2階に2面4線のホームを設ける形で設計された。しかし、肝心の駅前広場近辺の再開発計画が付近住民の反対運動によって大幅に遅れ、着工は昭和47年11月までズレ込んだ。湾岸新線着工当時の周到な段取りはここにはまるで及んでいなかった。そこへオイルショックが重なって工期はさらに延び、昭和51年完成を目指していたものが最終的には昭和55年10月までかかった。当駅の完成の遅延は、その後の南西急行の経営にも少なからぬ悪影響を与えている。
また、緩行線駅と急行線駅の間は国鉄を挟んでいるためラッチ外連絡となり、相互の乗り換えが凄まじく不便な設備となった。その対策として、末木・藤田・新神津の3駅から狩野以南の各駅へ行く場合は、乾まで逆行して乗り換えできる制度になっている(逆方向も同じ)。
(10)新神津駅
別項「新神津駅の発展」を参照されたい。
(11)新宿駅
別項「新宿駅改良」を参照されたい。
6.紅林~末木間の工事概要


乾駅付近の工事前の配線。図版の右上が槙坂駅、中央が乾駅、左下が末木駅である。

末木駅を新宿方に移転し、島式ホームの外側に相対式ホームを構築してホームを切り換え、急行線の施工スペースを確保。乾駅は外側2線を使用停止してホームを拡幅、新宿方を仮線に切換。神津方には急行線・緩行線間のシーサスクロッシングを挿入。

紅林駅~乾駅間に急行線を増設。乾駅の新宿方に緩行下り線が急行線を跨ぎ越すための立体交差を新設。

乾駅の外側2線を使用開始し、内側2線を使用停止してホームドアを新設。

乾駅の内側2線を新宿方から延伸してきた急行線に接続。緩行線は暫定的に乾駅4番線で折り返すため槙坂~乾間に仮下り線が設けられた。1番線は緩行線から神津駅に向かう列車のみが使用。
STEP6については後述。
7.二つの暫定開業
別項で述べたように、神津駅(急行線駅)の工事の遅延により、「昭和51年に美咲総合駅切換・湾岸新線開通・経営統合を同時に実施する」というヨンサントオ協定の締結当初の目算は崩れた。昭和51年とは美咲空港の開港時期に合わせた目標だが、当の美咲空港の建設工事も遅延が確定的であり、昭和50年頃になると関係者の間で現実的なプロジェクト進行の手順を再検討する動きが出てきた。その結果、経営統合を最優先に進める(何せこれは人の努力でどうにかなる話である)こととなり、昭和51年4月に新会社(すなわち南西急行電鉄)を発足させ、その翌年の昭和52年10月を目標に美咲総合駅切換を果たした後、湾岸新線のハードウェアのうち、その時点で使える部分だけでも使用開始していく…という大まかな流れが取り決められた。
昭和52年4月、美咲空港の開港時期について政府が「昭和53年5月開港」と方針を決めたことで、発足2年目の南西急行はかなりキツいプロジェクト進行を強いられることになった。空港の開港と同時に、せめて美咲空港駅と関浜の車両基地(現在の関浜車両所)は使用開始しなければならないのだが、その時期は美咲総合駅切換からわずか8カ月後であった。
また、東京側でもそれと同時期には(神津駅までの複々線化は無理でも)乾駅までの複々線化が可能になる見通しが立っており、当時の「通勤地獄」とも呼ばれた状況を考えれば一刻も早く使用開始すべきところであった。つまり、近接した時期に三つのプロジェクトを果たさなければならなくなったのである。
そこで、南西急行は
このようにプロジェクトチームを再編成し、それぞれの準備を同時進行させることにしたのである。そのうち第一項は別項を参照していただくとして、残る二つについて以下に述べる。
(1)新成原~美咲間暫定開業
美咲総合駅切換後、美咲空港の開港と同時の昭和53年5月20日に新成原~美咲間が暫定的に開業した。美咲駅の第三ホーム(5・6番線)はこのとき使用開始されている。美咲空港駅には折返線は設けられず、準備工事のままとされた。
美咲駅は、新駅切換以降、全列車が折り返すターミナル駅としてはホームが不足しており、同駅をスルー運転できるようになって状況が大幅に改善された。また、美咲への通勤客を運んだ編成をそのまま関浜の基地に収容し、八浦や矢積への"返し列車"を削減して合理的な運転が可能となった。
なお、この時点におけるダイヤに関しては別項を参照されたい。
(2)乾複々線化
新成原~美咲間暫定開業から一カ月も経たない昭和53年6月17日、京神線(このころは東京線ではなかった)の複々線区間が乾まで延伸された。このような短いピッチで大規模な切換工事が可能であったのは、まさに路線が分断されていて其々のプロジェクトをそれぞれ独立に進行できたからである。
この時点では、乾駅では緩行線用の折り返しホームが4番線のみ(1番線は折り返せず用途が無い)、神津駅(緩行線駅)でも工事(これは南西急行の一連のプロジェクトとは無関係)に伴い使用可能なホームが1線のみとなった。複々線区間の末端が緩行線・急行線共に1線しかないという歪な設備である。そのため暫定ダイヤが適用されたわけだが、それは2年以上に及び、「暫定」と言うにはいささか長すぎる期間であった。
なお、このころになると新宿駅は特急用ホーム(3・4番線)の新設工事が進捗している。

8.全線開通と全線直通化
昭和55年10月2日、南西急行の悲願であった神津地下駅の工事が完成し、最後まで残った新成原~神津間が開業した(このときのダイヤはこちらを参照)。同時に、湾岸新線と京神線は合わせて「東京線」に改称された(黒沢町駅は新神津駅に改称)。ただし、神津駅(地下駅)の乾方は使用開始できず、乗務員の訓練運転が行われ、約1月半後の同11月15日に湾岸新線と京神線の直通運転が開始された。
なお、新宿駅の2面4線化はこれに先立つ昭和55年5月に使用開始している。これも、実は湾岸新線建設工事の一環として施工されたものである。

同年12月10日には、新宿~青海ヶ浦間に直通特急なぎさ、新宿~水澄間に直通特急ひびきが運転開始され、ようやく南西急行の運転形態の骨格ができあがったのだった。事実上、この日が南西急行の創立記念日と言っていい。
このように段階的にダイヤ改正を実施したのは、新しい運転形態に現場を徐々に慣らしていくためである。この「段階的切替方式」は、南西急行の特徴的な手法と言える。
当初の予定では、会社の統合と路線の統合は同時に行うはずであったが、結局、後者は5年近く遅れてしまった。しかし、輸送現場にとっては混乱を避けるという意味でこのことは決して悪い結果ではなかったというという声もある(負け惜しみではあろうが)。


乾駅~神津駅間開業後、槙坂駅~乾駅間の緩行下り仮線は保守用車線に転用された。神津駅は完成してもプロジェクトはそれで終わったわけではなく、後始末的な工事は続いていた。