湾岸急行電鉄
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昭和43年10月、いわゆるヨンサントオ協定が締結され、京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道の三社は、経営統合への具体的な作業を開始した。その作業で中心的な役割を果たしたのが、三社からの人材の寄せ集めで発足した湾岸急行電鉄である。本項ではその発足から消滅に至る経緯を概説する。関連項目:湾岸新線・美咲総合駅・神津駅の発展等も参照ありたく。 |
1.湾岸急行電鉄の発足
別項で述べた「ヨンサントオ協定」の骨子は
であり、経営統合の結果出現する新会社は、前身三社が合弁で設立した「湾岸急行電鉄」が逆に前身三社を吸収合併する形で誕生することになっていた。これは、三社のいずれかを存続会社とすると、書類上、その会社が他の二社を吸収合併したことになり、社員に「吸収した/された」という意識が芽生えるのは不都合であったためである。

また、時間の面でも、経営統合に向けた準備期間の間、湾岸新線と美咲総合駅の建設工事の発注・監理を行う会社が急ぎ必要とされたという側面もある。その受け皿が湾岸急行電鉄であった。
湾岸急行電鉄の発足当時の出資比率は京神電鉄10%:青海鉄道10%:水澄鉄道10%:X県30%:地元財界40%であったが、人材は京神・青海・水澄の3社から同数ずつ出向という形で集めることになった(当時の三社の規模は、輸送人員はともかく社員数では拮抗していた)。
湾岸急行電鉄の事務所は、県庁に近いオフィスビルを借り上げて設けられた。このころ、京神電鉄は藤田に、青海鉄道は八浦に、水澄鉄道は矢積に本社があり、美咲はそれぞれから等距離にあり立地は適切であったが、京神電鉄から出向するスタッフは自社の営業エリア外での勤務に大きく戸惑ったという。
2.プロジェクト・チーム
前述のように、湾岸急行電鉄はいずれ出現する新会社の母体であり、前身三社を経営統合するための準備が重要な業務となっていた。そこで、社内には以下のようなプロジェクト・チームが編成された。
(1)建設工事プロジェクト
湾岸新線および美咲総合駅の建設工事を発注・監理する部門である。 本社のほか、神津および関浜(当時は埋立B地区と呼ばれた)に監督員事務所を設けていた。技術系社員は施設4系統(土木・建築・軌道・機械)と電気5系統(電車線・配電・変電・信号・通信)で班を編成して、施工中の工事の監督業務と、これから発注する工事の設計業務を担当した。
昭和43年当時、京神電鉄は自社プロジェクトとして旗塚~紅林間の複々線化を進めていたので湾岸急行電鉄に要員を出す余裕が無く、当初は青海鉄道・水澄鉄道出身者を中心に構成された。特に、昭和33年に神明峠新線を開通させた経験のある水澄鉄道出身者の活躍が目立ったと言われている。しかし、それでも昭和47年の紅林複々線化の完成後に京神電鉄からの要員が合流するまで業務は停滞気味で、特に神津地下駅の工事の遅れの一因となった。
(2)運輸・車両プロジェクト
運転規程班
前身三社の列車運行に関するルールの統一を図る。都市間鉄道である京神電鉄と、地方鉄道然としていた青海鉄道・水澄鉄道の企業風土の違いを吸収することが最大の課題となった。当班は、昭和43~45年度にかけて統一化した新規程を検討し、昭和46年度以降、三社の既存車両を新規程に対応させる改造工事を進めた。昭和45年度に青海鉄道・水澄鉄道が共同開発した8000系、昭和46年度に登場した1000系、昭和47年度に登場した2000系もこの新規程に基づいて開発されている。
また、この班は三社の社員の教育も任務として課されており、昭和46年度から前身三社に出向いて座学研修の形で新規程の浸透に努めた。しかし、この研修は目立った効果が見られず社員からは不評で、班のスタッフは「実設備と実車による実地の訓練に基づかねば実力は身につかない」という「三実主義」を掲げて、訓練施設の建設を湾岸急行電鉄の経営陣に訴えた。これが現在関浜車両所内にある研修センターにつながっている。この施設は関浜車両基地完成前の昭和48年度に稼働し、経営統合後の全線直通運転に備えた社員のスキルアップに大きく貢献した。
車両計画班
車両基地の再編成と、前身三社の車両群の運用計画を策定する、鉄道屋の花形とも言える部門である。しかし、発足当初は三社間の利害の調整役に過ぎなかった。
そこで湾岸急行電鉄は、新会社の将来を担う新型車両の開発により車両施策に関する主導権を握ることを画策し、営団谷町線直通用の通勤車1000系、全線共通仕様の一般車2000系を登場させた。特に1000系は当時の最新技術であるチョッパ制御を採用し、既存三社では生み出せない次世代の車両であることを強くアピールした。この作戦により、湾岸急行電鉄は前身三社に対する指導的立場を確立することができたのである(その1000系がトラブル多発で京神電鉄から大不評を買うのはまた別の話である)。
しかし、青海鉄道・水澄鉄道向けの中継ぎ用特急車8000系にまでは手が廻らず、同系については両社で別の共同作業グループが編成され開発されている。
輸送計画班
新会社のダイヤを策定する、極めて重要な業務を担当した。昭和55年に全線が直通化したときのダイヤは、実は湾岸急行電鉄発足時からずっと検討され続けてきた(発足時のダイヤがそのまま直通化時のダイヤになったわけではもちろんない)。このダイヤが決まらなければ、新会社に必要な人員・車両・設備の分量が決まらないからである。しかし、実際には、実務としてのダイヤ編成作業以上に、湾岸急行電鉄の大株主たる県と地元財界との協議にマンパワーを大きく割かれた。特にスポンサーからの「最小限の投資でなんとかしろ」とのコストダウン圧力に苦慮させられたという。「能力不足の設備でもとりあえず開業させ、その後の情勢の変化に応じて追加投資で乗り切る」という南西急行の褒められない体質はこの当時の状況に根ざしている。その典型例が、後の東京線輸送力増強工事であった。
(3)業務統合プロジェクト
営業制度班
新会社発足後の営業制度を策定する班である。空港アクセス輸送、長距離運転の有料特急、地下鉄直通運転など、前身三社が経験していない営業形態が加わるため、考慮すべき事項は多岐に渡った。特に苦労が多かったのは運賃・料金の設定である。これは将来の新会社の財務状況と、競合する国鉄や湘南電鉄(当時はまだ南武鉄道ではなかった)とのバランスをにらんでの作業となったが、新会社発足に至るまでの間にオイルショックがやってきて経済状況が一変し、これまでの仕事が全面やり直しになるという場面もあった。後に、湾岸新線の工事費を回収するために国鉄より高額の運賃設定が必要と判明した際には、スタッフ全員が顔面蒼白になったと言われている。
駅務班
駅における業務の統一化を担当した。ここは会社毎の実態が最も異なる部分であり「既存三社のうち1社のやり方に統一する」という方式が使えなかった。そこで「既存三社とは全く別の新しいやり方に統一する」という方式を採ることになり、その手段として業務の電算化を推し進めることになった。南西急行が早い時期から営業業務にコンピュータを導入してきたのはこうした事情による。
福利・厚生班
福利・厚生に関する制度を統一する部門。当班が最初に行ったのは、前身三社の職務乗車証を相互利用できるように調整し、三社の社員が自社以外の沿線に積極的に出かけるように仕向けることであった(実際には、神津~美咲間が未開通の状態ではあまり効果が無かったようだ)。
社宅や寮の再編成も大きな課題であった。鉄道会社は、自社の沿線に社員を居住させ、緊急時に即座に対応できるよう体制を整えなければならない。そのため、新会社の新たな営業エリアとなる湾岸新線沿線と、京神電鉄で手薄だった神津地区、青海・水澄鉄道側で手薄だった美咲地区に社宅・寮を新設し、そこへ居住を希望する社員を募集する等、社員配置の再編成に努めた。ところが、新施設への入居希望が殺到したり、青海鉄道・水澄鉄道の社員が東京地区へ、さらに逆に京神電鉄の社員が青海・水澄地区へ転居を希望するケースが多発した。
このように、社員は会社が望むようには居住地を選択してはくれない。このあたりを調整するのが当班の重たい仕事であった。
人事・勤務班
人事制度・勤務ルールを統一化する、最も神経を使う部門である。例えば、前身三社ではいずれも「助役」という職位があるが、この職位に求められるレベルや、支払う給与、想定している勤続年数などはそれぞれの会社で異なる。これを各社で合わせるためにいきなり大規模な制度改革をやると大混乱するため、数年をかけて徐々に統一していくという方式を採用した。
最大の問題は給与水準の統一である。昭和43年当時、京神電鉄の給与は他の二社より少し高かった。そこで、昭和51年の新会社発足(予定)までの間に、京神電鉄の昇給幅を抑え、青海鉄道・水澄鉄道の昇給幅を上げて調整することになった。京神電鉄の社員にしてみれば、会社の経営統合のために自分たちの給与が抑えられているという構図になる。こうした不満に対しては労組との粘り強い交渉が必要であったが、湾岸急行電鉄の経営陣が京神電鉄の労組と交渉することはできないので、京神の経営陣に動いてもらわねばならない。他方、青海・水澄側では給与水準に見合った業績アップが求められ、前述の8000系の急造による特急列車の運転等の施策が実施されたが、これも湾岸急行電鉄と青海・水澄の経営陣との協議によって行われたものである。
このように、当班は労働条件の統一化に関して前身三社の経営陣との協議の事務方として機能した。後に南西急行の経営幹部に就いた人の多くはこの班の経験者である。
財務・経理班
これも会社ごとに仕組みが全く異なる分野であり、統一化には尋常ではない苦難が伴った。半ばブチ切れた当班のスタッフは、駅務班と同様にコンピュータ化による業務改革を断行し、「前身三社のいずれにも由来しない業務システム」を構築する方針を選択した。その経費は経営統合の当初予算には未計上であり、この方針選択には異論が多かったが「駅務システムとの連携が必要」という論理構成で押し通し、予算を増額してシステム導入を決めたのである。
また、当班のもう一つの任務として、三社の財務状況を正確に算定・把握・予測し、最終的に経営統合する場面での合併比率を算定することがある。経営統合時点におけるほぼ全ての数字がこの比率をベースに組み立てられることになるので、この任務は非常に重要かつ苦痛を伴うものであった。この業務の軽減に先のシステム化は大いに役立ったのだが「自分たちの仕事を楽にするために多大な経費を使いやがって…!」と他部門からの批判の声も大きかった。
総務班
前身三社の管理部門の業務の統一を担当していたが、実態は何でも屋である。そして、この班には重要な任務が与えられていた。三社の社員を融和させる仕掛けをしていくことである。
そのため、当班は三社(湾岸急行電鉄を含めて4社)合同の運動会、海水浴、山登り、キャンプ等のイベントを頻繁に開催した。こうした会社の行事は現代では社員から歓迎されないが、当時は社員間の親睦を深めるには有効と考えられていた。しかし、これまでほとんど接点の無かった三社の社員を参加させても、大した効果があるわけでもない。
実は、湾岸急行電鉄の幹部は参加者よりもむしろ主催スタッフたる当班の社員が「仲良く」なることを狙っていた。そして、結果としてこの方策は大きな効果を上げた。昭和51年の経営統合の作業がスムーズに進んだのは、総務班が十全に機能したことに帰されるのである。
3.新会社の設立準備
湾岸急行電鉄が、前身三社を取り込んで新会社を発足させるにあたり、新線建設や業務システムの統一以外にも準備作業が必要であった。その内容を以下に述べる。
(1)組織形態の決定
これまで述べてきたとおり、新会社は前身三社+新規開業区間という形で発足することになる。そこで、新会社をどのような組織形態にするか? という点が大きな問題となった。
当時は、前身三社の組織をそのまま支社として分割統治するという案と、全ての組織を再編成して中央集権的に統治する案の二つがあり、当初は前者が有力視されていた。すなわち、会社の経営統合に要する手間と費用の面で有利であり、また、環境の激変を好まない多くの社員にとって受け入れ易かった。一方で、都市間鉄道である京神と、郊外路線(はっきり言えば田舎路線)である青海・水澄の社風の違いを乗り越えないままとなり、経営統合が円滑に進まないのではないか、という懸念もあった。
新会社の大スポンサーであるX県は「県の交通網を東京に直結するために京神電鉄を取り込む」という目的意識を持っていた。それゆえ、湾岸急行電鉄への出資とは別に、京神への出資も行っていた(これが紅林複々線化の原資になっていた)のである。にもかかわらず同社が異分子的に組み込まれて経営効率を悪化させる、という事態は避けたいところであった。
そういうX県の意向と、「どうせ経営統合するなら一体的にならなければ意味が無い」という前身三社の経営幹部の思いもあって、新会社は最終的には後者案での経営統合を目指すことになったのである。詳細検討の結果、新会社は全営業エリアを渋谷・神津・美咲・八浦・青海・矢積・水澄の7地区に分割し、本社が各地区を直接指揮下に置く形態を採ることになった。地区には車両基地、駅、工務系、電気系の現業機関が所属し、地区センターはそれらの機関の庶務をサポートする。各現業機関の業務は本社の主管課が指導する。この組織形態は、現業機関の名称や所在地を変えつつも2019年度まで継続された(別項「企業研究室」を参照)。
(2)人事交流
前身三社+湾岸急行電鉄の経営統合では、事前の人事交流が重要視された。経営統合を果たした暁には、四社の人材が現場の末端レベルまで相互に協力して業務を遂行できるようになっていなければならない。そのため、前述のように各社の社員を打ち解けさせるための取り組みがなされてきたが、人事面でも、前身三社でそれぞれ現業社員の概ね1/6ずつを目安に他の二社に2年間出向させる「相互出向」という制度が導入された。この制度は、第一次が昭和45~46年度、第二次が46~47年度、第三次が47~48年度、第四次が48~49年度、第五次が49~50年度と段階的に行われた。なお、4社の経営統合は昭和51年4月であり、第五次は勤務地変更に伴い転居を希望する社員が対象であった。
この「相互出向」は、対象となった社員の数は分野ごとに異なり、必ずしも同数の社員を交換していたわけではなく、実態としては青海鉄道・水澄鉄道の二社から京神電鉄への助勢であった。このころの京神は紅林複々線化と湾岸新線(紅林~末木間の既存線複々線化部分)建設のプロジェクトを抱えて業務が大変輻輳しており、特に工務・電気部門では大いに歓迎された。
また、別項でも述べているが、昭和45年2月の緩行線高架切換の際には池尻駅~東仙寺駅間の7駅の旧駅・新駅両方に駅社員を配置する必要から、臨時に青海・水澄の二社から応援の社員を派遣している。このような共同作業は、前身三社の社員間の協力意識を醸成するのに大きな効果があった。
(3)指令の統合
鉄道会社の経営統合にあたって最も重要な要素である。ヨンサントオ協定締結時点で、京神電鉄は藤田に、青海鉄道は八浦に、水澄鉄道は矢積に本社があり、指令所もそこにあったが、いずれもCTC(列車集中制御装置)化はなされていなかった。当時、京神は紅林複々線化のプロジェクトを進行中であり、それを果たした暁にCTC化を行う予定であった。また、青海鉄道・水澄鉄道は単線区間があり列車交換設備を有する駅(連動駅)が多くてCTC化に大きなコストを要するため投資に踏み切れる状況ではなかった(連動駅が多いからこそCTC化には大きなメリットがあるのだが、そのための初期投資額が大き過ぎた)。
しかし、既述のように、経営統合後の新会社はこの3社分の人員で湾岸新線を含めた全区間を運営しなければならず、要員の削減は必須条件であり、各駅に配置する運転取扱要員だけでなく、指令所に配置する指令員そのものも指令所を統合することで最適化する必要があった。そこで、全線のCTC化を実施するにあたり、路線の結節点である美咲駅に新会社の指令所を設けることとなった。
美咲CTC指令所のシステム構成。灰色は表示駅、黒色は後に追加された被制御駅。美咲駅はルート数が多すぎるため表示駅となっており、同駅の信号扱所をCTC指令と同居させることで各線と一体的な運行管理ができるように考慮されている。また、紅林から分岐する神宮線は紅林基地の信号扱所で制御するようになっていた。このように、本CTCはコストダウンと工期短縮のために表示駅が多すぎて指令設備としてはかなり出来が悪く、平成4年に運行管理システムARMSを導入する際にはこの点を改善することが第一目標とされた。 |
CTC化とは、単に各連動駅を遠隔制御できるようにすればよいというものではない。
- 運転取扱規程の整備
- 列車無線設備の整備
- 制御用通信設備の整備
が伴わねばならない。そのうち、1.については前述のように準備を進めていたが、2.および3.については前身三社が自路線の沿線で工事をしなければならない。京神電鉄は複々線化工事で設備の姿を大きく変える途上であったので問題は無かったが、青海鉄道・水澄鉄道の信号・通信部門にとっては、湾岸新線建設のために人員を供出している中では業務量的に重たい仕事であった。
一方、湾岸急行電鉄では美咲CTC指令所のシステム構築を進めたが、こちらは「いつの時点の設備を前提にシステムを構成するか」の検討が困難を極めた。一連のプロジェクト群を進めている途上では設備状況が頻繁に変わるため、早期にシステムを構築しても、後の建設工事の進展に合わせたシステム改修のコストが大きくのしかかってくる。しかし、早期にCTC化を果たさなければ要員削減の効果を早期に得ることはできず、このあたりのバランスがかなり微妙なところであった。
結局、CTC指令所は昭和52年10月の美咲総合駅切換に合わせて使用開始された。このときは青海線・水澄線用のシステムのみであり、東京線側は翌昭和53年5月の湾岸新線新成原駅~美咲駅間開業に合わせ、東京口の区間を含めてCTC化されている。その後、同6月の京神線紅林駅~乾駅間複々線化、昭和55年10月の乾駅~新成原駅間湾岸新線開通によりシステム形態を小変更して全線の整備を完了した。すなわち、紅林複々線化のタイミングでのCTC化は見送られたわけだが、それでも全線開通までの間、旧京神電鉄区間は沿線外に指令を置くことになり、指令員は不便な通勤を強いられた。
また、このCTC化においては神津地下駅の工程遅延によって美咲から東京側への通信ケーブルの新設が遅れ、東京側区間使用開始の1年前(昭和52年5月)にようやく仮設状態で回線提供され、そこから大急ぎで接続試験を実施して間に合わせる場面もあった。
南西急行電鉄の発足は昭和51年4月、指令所の使用開始が昭和52年10月だから湾岸急行電鉄はこのプロジェクトを完遂せずに消滅してしまったが、新会社の信号・通信部門は、全線開通よりも先にCTC化を果たすという短期的な目標を与えられ、他の部門よりもいち早く一体的に業務を進める体制を固めていったのである。
(4)本社の設営
会社統合後の南西急行電鉄の本社をどこにするか? これも困った課題であった。
本来、ヨンサントオ協定の目的の一つは湾岸地区の開発にあり、南西急行の本社もその目的に沿って、開発計画の第3ブロック(現在の新成原駅付近)に設けるべきであった。ところが、肝心の湾岸地区開発計画がまさに湾岸新線の建設遅れのために進まない状況であり、このまま第3ブロックに本社を建てても周辺は荒れ地のままで、とても企業活動ができる環境ではなかった。これが昭和50年頃の状況である。「ヨンサントオ協定」の項で述べたように、経営統合の目標時期は昭和51年度であったから、この頃には、計画が遅延することは確定していた。
また、湾岸急行電鉄は、経営統合に向けた一連のプロジェクトを進行させるだけで手一杯であり、本社ビルの建設にまでとても手が廻らなかった。そこで、暫定的に美咲駅の近傍のオフィスビルを借り上げて本社とし、湾岸・京神・青海・水澄の4社の本社機能をそこへ集約することにしたわけだが、この作業の幹事会社たるを引き受けたのが水澄鉄道であった。当時、同社は美咲総合駅切換やCTC化といったプロジェクトにおいて最も負荷が軽い状況であったからである。そして、このことが、既存3社で最も経営規模の小さい水澄鉄道がその後の南西急行全体を主導する要因となった。
新本社は昭和51年4月、つまり南西急行電鉄発足と同時に使用開始された。もちろん、湾岸新線はまだ全通していないので、旧京神電鉄の区間は飛び地のようになってしまい、そのことに対して旧京神の社員からは反発があった。旧京神の区間から本社に行くには国鉄なり湘南電鉄(昭和52年4月に南武鉄道になった)を利用しなければならず、手間も費用も大きなものになるからで、「せめて京神電鉄の統合は湾岸新線全通後にしてくれ」というのが旧京神の社員の主張だった。
しかし、それでは新会社の経営が一体的に行えるようになるまでにさらに時間を要してしまう。そのため、前身三社+湾岸急行電鉄の経営陣は、多少の足ロスを覚悟してでも全社同時に経営を統合することを決めたのである。
この新本社はあくまで暫定措置とされていたが、実際には平成4年まで16年間使用された。手狭ではあったが美咲駅に近く便利な立地が好評であったからで、新成原の新本社ビルへの移転にはこれまた反対意見が出た。そこで、前述したCTC装置にPRC(自動進路制御装置)を付加する(すなわちARMSの構築)にあたり「美咲駅構内の指令所のスペースではPRC装置を収容できないため、新本社と新指令所を一体整備する」という理由をつけて、ようやく移転を実現したのだった。
4.湾岸急行電鉄の消滅
もともと、湾岸急行電鉄は前身三社から人材を集めてヨンサントオ協定を実現する目的で設立されたものであり、消え去ることが最初から予定されていた会社であった。しかし、ヨンサントオ協定の目標である昭和51年の前年、昭和50年頃の状況は
という具合であり、目標時期が達成できないことは確実であった。そこで目標時期の見直しが必要になったわけだが、ここで少し考えなければならないのは、全線開通を先にするか経営統合を先にするか、である(ヨンサントオ協定締結当時、実はこの手順は未検討で、関係者は何となく「同時」という認識を持っていた)。前述のように、全線開通を先行させれば、路線に飛び地の無い効率的な環境で経営統合の作業ができる。逆に、経営統合を先行させれば、全線開通に伴うダイヤ改正等の作業を効率的に進めることができる。結果として、湾岸急行電鉄は後者の方針を採用した。
また、経営統合の時期は、美咲総合駅の使用開始の前とした。これは、美咲駅の構内を二社で分割統治することの煩雑さを避けるためで、経営統合をできる限り前倒しして一刻も早くその効果を得るのが得策とされたのである。
昭和51年4月、湾岸急行電鉄を存続会社とし、京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道を合併して「南西急行電鉄株式会社」が発足した。その手続きから言えば、湾岸急行電鉄は消滅したわけではない。しかし、同社を生み出した当のX県庁関係者をはじめとする周囲の認識は一本も列車を走らせたことの無いペーパーカンパ二―が役割を終えて消えたであって、一般社会ではそういう会社が存在したこともほとんど知られていなかった。
ところで、南西急行の発足時、駅の看板などの社名の表示はどのように切り換えたか? 実は、主要駅のみ当日に旧社名の部分を「南西急行」に張り紙で修正しただけである。当日は新線開業があったわけでもダイヤ改正があったわけでも車両の塗装が変わったわけでもなく、青海線と水澄線もまだ美咲駅の統合を果たしておらず運賃の通算化も行われなかったため、利用者にとっては何の変化も無かった。発足の式典も新本社内でささやかに行われたのみで、地味~に、かつ淡々と南西急行は立ちあがった。当面、彼らが没頭しなければならないのは美咲総合駅使用開始の準備であった。