水澄鉄道
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本項では、南西急行の前身3社のひとつである水澄鉄道の、経営統合までの概況を解説する。現在の水澄線の状況については「水澄線」を、その他関連項目として「京神電鉄」「青海鉄道」も参照されたい。 |
1.水澄鉄道の沿革
水澄鉄道は、聖川水系の水資源開発と観光開発を主目的に、地元と美咲の財界人が中心となって設立された。大正14年3月に矢積~水澄間が開業し、昭和3年6月には関連会社の水澄登山電鉄が開業している。水力発電事業の大口顧客を創出するため、開業当初から直流1500Vで電化されていた。また、昭和13年3月には矢積~戸張間が複線化された。当時、戸張には砲弾の工場があり、その輸送を迅速に行う目的であったが、それゆえに米軍の攻撃目標とされ、矢積と戸張は昭和20年1月の空襲で壊滅的な被害を受けることになる。
戦後は、戦災で機能を著しく欠いた矢積に代わり美咲を拠点とすべく、矢積~美咲間の通称「神明峠新線」の建設に力を注ぎ(神明峠トンネルは実は戦前に掘削済みであった)、昭和30年6月に着工。昭和33年10月に開業し、県都美咲への独自ルートを開拓する。ただし、美咲駅における国鉄と水澄鉄道の接続についての協議は成立せず(これは物理的に困難であったからだが)、神明峠新線の美咲駅は仮設駅とされた。その後、将来の本設化に向けた運動が展開されることになる。
昭和40年のX県鉄道網再編計画、昭和43年のヨンサントオ協定に関連した水澄鉄道の動きはどうであったか? 実は、同社は大いに活況を呈していた。彼らは県都美咲ですら仮のターミナルと位置付け、この一連のプロジェクトを、水澄鉄道を東京直結の大手私鉄として躍進させる絶好の機会と捉えていた。神明峠新線開業を果たし意気上がる水澄鉄道は、その後も南西急行の発足に至るまでリーダーシップを発揮する。最も企業規模の小さい同社がそのような位置に立ったのは、人材の層が最も厚かったことによるのである。
2.水澄鉄道の設備
(1)線路配線

館川町駅~戸張駅間が複線、その他の区間は単線。基幹車両基地は矢積駅に併設され、同駅は国鉄との直通運転の結節点でもあり、水澄鉄道にとっては重要極まりない駅であった。
一方、終点方の拠点として水澄駅に運転所が設けられ、特急・急行列車の折返し整備はここをメインに実施された。
美咲~館川町間が単線になっているのは、同区間が仮線であり、いずれ本設の美咲駅に乗り入れるという構想があったためである。ただし、神明峠新線が開通した昭和33年当時は「本設の美咲駅」が具体的に決まっていたわけではなく、むしろ水澄鉄道の妄想のようなものであった。
(2)美咲駅


昭和43(1968)年10月のヨンサントオ協定締結の報は、水澄鉄道の利用客には好評をもって迎えられた。特に、神明峠新線の沿線は、将来的に東京へ直通可能となることで地価が跳ね上がり、開発が加速された。それに伴って美咲駅の混雑も激しくなっていき、仮設駅の1面2線ではもはや限界、というタイミング(昭和52(1977)年10月)で美咲総合駅への切り換えが果たされたのである。19年間というのは仮設としては長過ぎる時間であっただろう。
(3)館川町駅

貧弱な美咲駅を補完するため島式2面4線の設備を有し、昭和45(1970)年10月のダイヤ改正で新設された特急列車の仕立整備も当駅で実施した。また、昭和52(1977)年10月の美咲総合駅切換から昭和53年5月の湾岸新線新成原暫定開業までの間は、青海線特急の仕立整備も当駅で行っており、当駅のハードウェアが関係者を大いに救った。その名残は、現在の同駅の運転取り扱い機能の充実ぶりにも現れている。当駅の構造の変遷については別項を参照。
(4)矢積駅

かつての矢積駅は、跨線橋を水澄鉄道と南街道本線が共用し、改札口だけが別という奇妙な構造になっていた。水澄鉄道開業時、同社は駅と車両基地を南街道本線貨物ヤードのさらに山側に併設させたので独自の駅舎を設けられなかったのである(当初は改札・出札口も間借りしていた)。ホームは開業当時から2面4線の構成であった。
戦時中は戸張の砲弾工場からの武器輸送によって水澄鉄道は大いに潤った。しかし、戦後は貨物輸送そのものを取りやめて継送用のヤードも撤去してしまった(図版の空いたスペースがそれである)。昭和33(1958)年、水澄鉄道が神明峠新線を開通させた際に、乗客の増に対応して同社用の駅舎を増築しているが、同社専用の跨線橋を建設するのは大きなコストがかかるため断念し、図版のような姿になった。
3.水澄鉄道のダイヤ
(1)東京直通急行「水澄」
昭和29(1954)年10月改正より国鉄は青海鉄道・水澄鉄道直通の東京発準急「青海」「水澄」の運転を開始。「水澄」の使用編成は「青海」と同じ80系6両編成で、運転本数も同数の5往復である。これは、国鉄が青海鉄道・水澄鉄道両社への平等性を重視したためで、利用実績は「水澄」の方が「青海」を若干上回っていた。
準急「水澄」は東京駅07・09・11・13・15時台発の「駿河」9両編成の静浜方に連結され、矢積から2駅東京方の森津駅で分割・併合が行われ、矢積駅では水澄鉄道のホームに発着して乗務員交代を行った。本列車の水澄鉄道線内の列車種別は特別料金を徴収する「急行」とされた。
東京からの直通列車の設定は、青海鉄道と同様、水澄鉄道にとっても非常に重要であった。ただし、昭和29(1954)年の時点では水澄鉄道はまだ美咲までの独自ルートを持っておらず、青海鉄道に比べて国鉄に対する従属性が色濃かった。昭和33(1958)年に開通した神明峠新線にしても、直通運転は昭和55(1980)年の終焉に至るまで矢積駅を接続点として行われたため、有効活用されているとは言い難い状況であった。こうした事情から、同社は新線を活用した形での東京への直通ルートを熱望するようになる。
昭和34(1959)年6月、車種が153系7両編成(編成は「青海」と共通)に変更され、昭和41(1966)年3月には国鉄の料金制度の改定によって国鉄線内も「急行」となっている。
(2)ヨンサントオ改正

昭和43(1968)年10月の国鉄のダイヤ大改正と同時に水澄鉄道もダイヤ改正を行った。急行「水澄」は「青海」と同じく165系7両編成に車種変更されている。また、「水澄」を補完する準急が新設された。このあたりの動きは、ヨンサントオ協定締結の事前協議の中で青海鉄道側と歩調を合わせている。ただし、水澄鉄道は戦前から戸張まで複線化されていたこともあって、このころには戸張まで30分ヘッドの普通が利用できるダイヤが確立していた。
美咲~矢積間の神明峠新線区間は開業から10年が経過し沿線にもそれなりに人口が張り付くようになっていたが、それでも美咲口における輸送実績は青海鉄道:水澄鉄道=4:3といったところであった。
(3)ヨンゴートオ改正

昭和45(1970)年10月、準急が新設の特急に差し替えられ、水澄鉄道の当面の目標であった美咲駅発着の看板列車が登場した。特急は2時間ヘッドで5往復の運転であり、特急料金は急行料金+指定席料金と同額。愛称は特に設定されず、200番台の便番号で列車を判別していた。このダイヤ改正で、経営統合後の「青海線系=百番台が奇数」「水澄線系=百番台が偶数」という列車番号のルールが確立したのである。

4.水澄鉄道の車両

昭和40(1965)~43(1968)年にかけて、水澄鉄道は旧型車の置換え用に7000系(後の4800系)を4両×20編成投入した。この車両は事実上青海鉄道との共同開発品で、国鉄の急行用車両と同レベルの車内設備であることから好評を博した。しかし、2扉クロスシートという仕様がラッシュ時に不適合を起こし、後に3扉化改造された4400系が登場した。

また、昭和45(1970)年10月(上記の「ヨンゴートオ改正」)に、青海鉄道との共同開発による特急車8000系を4両×6編成投入している。

昭和47(1972)年度には、昭和43(1968)年10月のヨンサントオ協定に基づいた経営統合後の共通仕様車として2000系が湾岸急行電鉄によって開発され、試作車4両×1編成を皮切りに投入された。
昭和51(1976)年4月の経営統合時点、つまり昭和50年度末時点の在籍車両数は、4800系(旧7000系)20編成(この時点では4400系へ改造された車はまだ無い)、2000系8編成、8000系6編成の計136両。青海鉄道が同168両だから水澄鉄道はその8割ということになる。