南西急行電鉄研究会

南武鉄道

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1.路線概要

南武鉄道/南武鉄道路線図.png
南武鉄道の路線

 南武鉄道は品川~川浜市~神津~成原市~美咲~藤濱市~新弦崎を結ぶ都市間鉄道である。品川~美咲間はJR南街道本線と完全に並行しており、熾烈な競争を繰り広げている。南西急行にとっても、東京~神津~美咲の都市間輸送については強力な競争相手だが、他方では互いに乗客を相互に供給するという側面もあり、地上設備の保守に関して合弁会社を設立するなど、その関係は単純ならざるものがある。

 かつては川浜~川浜港間に「大師線」という支線を有していたが、平成13年の"湾岸ライトレール"の開業時に路線を移管しており、現在は支線を全く持たない特異な大手私鉄となっている。

 品川付近、神津付近、美咲付近は地下区間で、一種の地下鉄的な役割を果たしている。他の区間は現時点で6割が高架化されており、将来的には全線が高架化あるいは地下化の形で立体化される。

2.ダイヤの概要

 南武鉄道の列車種別と停車駅のパターンを下の図に示す。南西急行とは対照的に、列車種別は極力単純化されている。ただし、そこへ複雑さをもたらしているのが品川からの都営浅草線乗り入れであり、その先の京成電鉄・北総鉄道とも一体のダイヤを構成し、途中での列車種別変更も取り入れられていて、判りやすいとは言えない。

 南武鉄道線内は日中10分ヘッドに特急1・普通1本のダイヤを基本としている。長年にわたって特急の混雑が常態化しておりこの点での評判は芳しいものではない。朝ラッシュ時は10分ヘッドに急行2本、各停1本(ただし4両から8両に増結)が運転され、ピーク時1時間の本数は18本と比較的少ない。並行路線が多く、全体的な輸送力に余裕がある状態だからこそ可能なダイヤであり、ラッシュ時の所要時間の延びは最小限にとどまっている。夕方ラッシュ時には1パターン20分間に急行3・各停2本を運転する。

南武鉄道/南武鉄道停車駅.png
南武鉄道の列車種別と停車駅

3.南武鉄道の車両

 南武鉄道の車両は18m級中型車で、軌間は1435mmの標準軌。最大編成長は8両である。元が路面電車のため衝突事故の例が多く、脱線を極力防ぐため(他にも理由はあるが)先頭車を必ず重量のある電動車としている。

 南武鉄道は以下のように列車種別ごとに専用車を充当する方針を採っている。普通用に関しては扉数を増やして乗降時間を短縮し優等列車から逃げ切る運転方式を採用していたが、ホームドア整備の関係で扉位置を統一する必要性から平成30年度に3扉車への移行が完了した。なお、日中の特急は半数が急行用車両で運転される。

  • 特急用:2扉転換クロスシート仕様8両編成
  • 急行用:3扉ロングシート仕様8両編成
  • 普通用:3扉ロングシート仕様4両編成
南武鉄道/南武鉄道特急車先頭.png
南武鉄道の特急用車両の例
南武鉄道/南武鉄道特急車側面.png
南武鉄道の特急用車両の例
南武鉄道/南武鉄道一般車先頭.png
南武鉄道の急行用・普通用車両の例
南武鉄道/南武鉄道一般車側面.png
南武鉄道の急行用・普通用車両の例

4.南武鉄道の沿革

(1)創業期から都心乗り入れまで

 周知のように、南武鉄道の前身である湘南電鉄は川浜大師への参詣輸送を目的として設立された会社で、明治32年(1899年)に六郷橋(現在の雑色~川浜市間にあった)~大師前間を開業し、さらに明治37年(1904)年に品川~神奈川間を開業させた。

 湘南電鉄は官鉄南街道本線よりも駅数、運転頻度、運賃で優位に立って営業的にも好成績を上げ、東京市電乗り入れによる官鉄品川駅前への進出、神津市電乗り入れによる神津市都心部への進出を果たした。さらに、美咲への延伸を画策し、昭和5年6月には神津市電の路線を一部買収したうえで品川~美咲間を全通させている。

 湘南電鉄は、大都市間の輸送は官鉄にまかせ、官鉄の恩恵を受けない沿線の集落や繁華街を結んで利益を上げることに専念するという方針を採り、信号設備の改良や架線電圧の昇圧によって、途中停車駅が多くても所要時間を増やさないように努めた。また、列車の長編成化よりもフリークェンシーによって輸送力を確保する方法を採用した。これが、現在の運転スタイルにも反映されている。

 昭和16年、五島慶太率いる東急が湘南電鉄の経営権を獲得。昭和17年4月には湘南電鉄は東京急行電鉄に合併されてしまうが、昭和23年6月に分離を果たして再び湘南電鉄を名乗ることになる。また、このとき、四浦半島北部に路線を有していた弦崎鉄道を系列下に置いている。

 戦後の湘南電鉄は、戦災で受けたダメージを必死で回復させつつ利便性の向上を進め、昭和32年3月の改正で急行:普通=1:1の緩急結合ダイヤを確立した。昭和33年、湘南電鉄と都営地下鉄浅草線との相互直通運転が決定され、昭和35年、品川駅の地下化と浅草線品川~泉岳寺間の延伸工事に着手した。この工事は昭和43年6月21日に完成・開業し、湘南電鉄の懸案であった都心乗り入れがようやく実現したのであった。

(2)都市圏輸送から都市間輸送へ

 湘南電鉄は軌道から出発しており、軌間1435mmで他の鉄道路線とは接続せず、戦後も市内電車との連携を重視していた。ところが、モータリゼーションの進展に伴って東京・神津・美咲から市内電車が淘汰されていくと、当然ながら同社の立場は苦しいものになっていく。

 昭和40年に発表されたX県鉄道網再編計画では、湘南電鉄・弦崎鉄道(当時「標準軌グループ」と呼ばれた)に関して、

  • 神津市内・美咲市内の地下化
  • 都市区間以外の区間の高架化
  • 弦崎鉄道との直通運転

 が盛り込まれたが、これらは京神電鉄青海鉄道水澄鉄道のいわゆる「狭軌グループ」側に示されたものに比べてかなり地味な内容であった。

 県当局は、湘南電鉄・弦崎鉄道の路線条件から、県内各地を高速度で連絡する機能は望めないと判断していた。また、神津市・美咲市内の都市圏交通網を充実させるには地下鉄の建設が有効とされたが、当時の両市には市営交通として地下鉄を運営する力が無く、両市に代わる建設・運営主体として湘南電鉄を選定したのだった。すなわち、今風の言葉で言えば公共交通のアウトソーシング(外部委託)を考えたのである。

 湘南電鉄側は県の意向に従い、地味な都市圏輸送に特化することを表向き受け入れた。そのため、南西急行は湘南電鉄と路線の役割的な棲み分けができるという前提のもとで一連のプロジェクトを推進できたのである。しかし、湘南電鉄の経営陣は、将来的には都市間輸送に進出することを狙っていた。

(3)合併そして直通化

 昭和43年、X県は神津市内の地下線建設工事に着手した。湘南電鉄はX県に経営権を握られるのを忌避したため、地下化工事や高架化工事を地元自治体の予算で行い、新設された路線に南武鉄道が乗り入れて自治体側へ線路使用料を支払うというスキームが成立していた。なお、美咲ではなく神津市内が優先されたのは、同市中心部の湘南電鉄の線路がいくつかの都市計画事業に支障していたからである。

 神津市内地下化は昭和49年12月に完成した。この種の鉄道工事としては異様に速いが、これは神津駅西口側の用地をすでに湘南電鉄が確保しており、その用地を利用して区画整理を一挙に進めることができたためである。反対側(東口)の南西急行神津駅の完成が予定より4年も遅れたのとは対照的と言える。3社合併という面倒なプロセスもあってちまちまと進行する南西急行に比べ、湘南電鉄は単独で身軽な体制であり、プロジェクトの進行は極めてスピーディであった。

 昭和52年11月、つまり南西急行の美咲総合駅開業の翌月、美咲市内地下線の北美咲~美咲間が完成し、湘南電鉄の電車が美咲地下駅に乗り入れた。なお、このとき、湘南電鉄と弦崎鉄道が合併して「南武鉄道」が誕生した。同社は一応路線的には全通したものの、美咲で乗り換え接続の形になった。翌昭和53年4月1日(ちなみに美咲空港の開港と湾岸新線新成原開業は5月20日)、美咲~富沢町間の地下新線が完成し、南武鉄道に関するプロジェクトは一応の完成を見た。しかし、地下化の対象とならなかった区間については、併用軌道区間こそ解消されていたものの、急カーブや踏切の解消が遅れており、本格的な高速鉄道への道はなお長く険しいものがあった。

(4)高速化志向のダイヤ改正

 南武鉄道は昭和50年代後半から、それまで改良工事が手付かずであった地上区間のうち、特に難工事が予想される川浜市内と成原市内の高架化に着手した。南武鉄道ではこれらの工事の中で高速化に必要なハードウェアの整備を進め、平和島、川浜市、枡見、長坂、成原市の2面4線化、東大井と昭和町の待避線を完成させている。また、北馬場+南馬場=新馬場駅、山藤橋+松中=浜田川駅のように、駅間距離の短い箇所の駅統合も行われた。

 これらの工事は、狭隘な用地の中で行わねばならず、直上高架化方式などの技巧的な工法を駆使したため巨額の工事費と長い工期を要した。南武鉄道にとっては我慢の時期と言える。

 そして平成11年10月、南武鉄道は、従来の日中で20分ヘッドに特急1・急行1・普通2本であったダイヤ構成から、10分ヘッドに特急1・普通1本の特急優位のダイヤ構成を導入し、都市間輸送重視の姿勢を鮮明にしたのである。

 このように南武鉄道が高速化志向を強めていくことは、実はX県としてはあまり愉快なものではなかった。前述のように、X県は南武鉄道に神津市・美咲市域の都市圏輸送の機能を期待していたからである。しかし現実の輸送需要は、両市内での都心一極集中が進み、拠点駅間の速達重要だけが伸びていった。そして、それを南武鉄道は予見していたが故に都市間高速輸送に耐えられる設備を整えていったのである。このダイヤ改正はその集大成であり、現在に至るまで南武鉄道の輸送の骨格を成している。

5.妄想の解説

(1)路線面では

 申し上げるまでも無く、現実世界の京浜急行電鉄をモデルとしています。根本的に異なるのは、羽田空港輸送を全く考慮していない(この架空世界では羽田空港が無いので当然ですが)ことであり、そこから発想して「支線が全く無い大手私鉄」という性格付けをしています。

(2)ダイヤ面では

 南武鉄道は、

  • 県の意向で神津・美咲両市の市内交通機能を兼ねた"急行"
  • 県の意向に反して都市間高速輸送に参入した"特急"

 という、全く意図の異なる優等列車を設定し、朝夕ラッシュ時には急行中心、日中は特急中心という具合に時間帯によってダイヤがまるで異なるのが特徴となっています。南武鉄道は観光・レジャーの要素が極めて少ない工業地帯の通勤鉄道で、乗客の乗車距離はあまり長いものではありません。そこを変えたい、というのが南武鉄道の経営陣の思いであるわけです。

(3)車両面では

 京浜急行電鉄のラインナップを踏襲しました。ただし、台車はボルスタレス台車としています。これは、京急のあの重厚な台車を描くのが面倒臭かったのと、軽快さを強調したかったからです。

(4)歴史面では

 南武鉄道は、南西急行と対象的に設定しています。つまり、

  • 南西急行…X県の資本注入を受け入れ、設備投資もX県に振り回される。企業行動は鈍重。
  • 南武鉄道…X県の資金で増強した設備を借りているが、経営方針は県に従順ではない。企業行動は敏捷。

 このようにしており、歴史的にも、南武鉄道の経営陣は状況を利用してうまく立ち回ったようにしています。ただし、なにせ路線条件が制約されていて、現在の設定以上に商売を拡大する余地が無いため想像の翼を拡げにくいのが難点です。



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