南西急行電鉄研究会

京神電鉄

本項では、南西急行の前身3社のひとつである京神電鉄について、経営統合前までの概況を解説する。関連項目:「青海鉄道」「水澄鉄道」も参照されたい。

1.京神電鉄の沿革

(1)戦前期

 京神電気鉄道株式会社は、大正10年に東京南西部と現在の川浜市・神津市北部の住宅開発を目的に設立された。当時、この地域では田園都市株式会社の子会社として目黒蒲田電鉄(後の東急)の設立準備が進んでおり、地元財界人がそれに対抗して設立したのが戦前の京神電鉄であった。

 大正12年3月に渋谷紅林間を複線電化で、紅林~武蔵神宮間を単線電化で開業している。紅林から先は武蔵神宮への参詣客輸送を当て込んで建設した区間で、後に神宮線という名称で支線化されている。後の大正12年9月1日の関東大震災で被災したものの損害は軽微(当時最新の設備であったため)で、被災者の郊外への移転という時代の流れの中で業績を伸ばした。ちなみに、東京側のターミナルとして渋谷を選択した理由は、同駅の山手線の貨物施設と接続するためで、貨物輸送も手がけることで南街道本線のサブルートたるを目指していたのである(ただし、実際には貨物輸送は行われなかった)

 ところが、その後の建設ペースは遅く、昭和7年2月に紅林~神津間を延伸し、ようやく渋谷~神津間の都市間高速鉄道として機能するようになった。しかし、「第二南街道本線」という構想は、当時の同社の輸送需要からすればオーバースペックな設備を保有することにつながり、さらに将来の線増を考慮して用地にスペースを設ける(このスペースは後の複々線化に大いに役立ったが、当時は単なる遊休地に過ぎなかった)など、経営計画が稀有壮大に過ぎるところがあった。そのため、神津延伸の直後から経営成績が伸び悩むようになり、昭和9年には無配に転落。昭和10年に商売敵の東急に吸収されてしまう。

 東急(当時はこの名称ではなかったが、現在の東急を形成する五島系列の会社群をこのように総称する)は京神電鉄の買収を機に渋谷の拠点性を強化すべく、昭和14年1月に東京高速鉄道新橋~渋谷間(現在の東京メトロ銀座線)を開通させる。その後、周知のように京王・帝都・織田急・湘南の各社が東急と合併させられていわゆる大東急時代に入り、終戦を迎えることになる。

(2)戦後期

 昭和23年、大東急の解体によって京神電鉄は元の経営形態を取り戻した。しかし、京神電鉄は営業エリアを東急にほぼ包囲された状態での再出発となり、沿線の住宅開発でも東京~神津間の都市間輸送でも厳しい競争に晒されることになった。

 京神電鉄は分離直後の昭和23年9月に渋谷~新宿間延伸の免許を受け、明治通りの下を通る地下新線を建設して昭和29年11月に開業した。京神の始発駅である渋谷が商圏的には東急の牙城のままであったため、新たな拠点を新宿に求めたのである(ただし、新宿延伸は戦前に計画されたもので、渋谷駅もそれを前提に建設されていた)。京神新宿駅は国鉄新宿駅南東側の街外れに建設されたため、織田急・京王新宿駅に対しては集客力の面で大きく差をつけられ、平成8年完成の大改良工事とTimes-Squareのオープンによりようやくその地位が見直されている。しかし、この新宿延伸は、国鉄中央線との乗換利便性を格段に向上させ、通勤路線・都市間輸送路線としての京神電鉄の地位向上に大きく貢献した。

 昭和35年、京神電鉄神津駅が新幹線の建設に支障するため仮設駅に切り換えさせられ、昭和37年には新幹線高架駅の真下に本設化している(別項を参照)。このようなことに振り回されたのは、京神電鉄の経営上の不幸と言えた。

(3)昭和40年前後

 ヨンサントオ協定締結の前段階にあたる昭和30年代末期、京神電鉄は新宿延伸線の投資効果を高めるために渋谷~紅林間の複々線化を計画していた。その詳細は別項に譲るが、昭和40年のX県鉄道網再編計画の公表以降、京神電鉄の経営陣は東京~神津間のインターバンから大きく脱皮するチャンスの到来にほくそ笑んだ。ところが、現場の社員にしてみれば、自分達の鉄道路線がはるか遠くの青海や水澄にまでつながるということ自体が想像の域を超えていた。ましてや、目の前にある紅林複々線化は京神電鉄の企業体力に対し明らかに過大なプロジェクトで、同社はすでに「それどころではない」状況に追い込まれていたのである。

 その後、ヨンサントオ協定の締結を経て、京神・青海水澄の三社は経営統合の準備を進めることになる。京神電鉄は青海・水澄の2社から人的な支援を得てようやくまともなプロジェクト推進体制を組めるようになったのだが、慢性的な人手不足は同社を苦しめた。このあたりについては別項「湾岸新線」・「湾岸急行電鉄」を参照。

2.京神電鉄の設備

 京神電鉄の線路配線については、ダイヤの変遷と合わせて後述することとして、ここでは主要駅のかつての状況を概説する。

(1)新宿駅

京神電鉄/京神電鉄時代の新宿駅.gif
京神電鉄時代の新宿駅

 京神電鉄が昭和29年に新宿~渋谷間を延伸開業した時点では、新宿駅は頭端式1面2線の必要最低限の設備しかなかった。”上り列車が渋谷駅で大量の通勤客を降ろした後は列車はかなり空くであろう。とすれば、ラッシュ時は全列車を新宿まで乗り入れさせる必要性は無いのではないか…”という発想によるものであった。なお、ホームを増設するための用地は買収こそされていたが、引き続き国鉄側が新宿貨物駅の貨物置き場として借用しており、四半世紀の時を経て湾岸新線全通に際しようやく2面4線化された(このときはすでに京神電鉄は南西急行となっている)。それ以降の当駅の構造の変遷については「新宿駅改良」を参照。

(2)渋谷駅

渋谷駅改良/step0.gif
改良前の渋谷駅
 渋谷駅は駅全体が抱える課題が新宿駅よりもはるかに深刻であり、京神電鉄の末期には駅改良工事に向けた国鉄・営団・東急との議論が始まっていた。詳細は「渋谷駅改良」を参照。

(3)旗塚駅

旗塚駅改良/hatazuka-S43.gif
改良前の旗塚駅
 紅林複々線化工事の始まる前の旗塚駅。もともと、渋谷駅起点で開業した際に、スペースの足りない同駅を補完すべく待避機能・留置機能を備えていたのがこの後の改良工事に非常に役立った。詳細は「旗塚駅改良」を参照。

(4)三泉駅

三泉駅改良/三泉駅step0.gif
改良前の三泉駅
 当駅は旗塚~紅林間の中間にあり、車両基地併設駅として紅林複々線化の工事期間中も運転取扱機能を確保することが至上命題とされた。詳細は「三泉駅改良」を参照。

(5)紅林駅

紅林駅改良/紅林駅S40複々線化前.gif
改良前の紅林駅
 複々線化される前の当駅は国鉄川浜線との乗り換え客で終日混雑しており、京神電鉄当時から評判はあまり良くなかった。詳細は「紅林駅改良」を参照。

(6)黒沢町駅

新神津駅の発展/昭和45年当時の黒沢町駅.gif
昭和45年ごろの黒沢町駅
 黒沢町駅は、湘南電鉄(当時)、国鉄(当時)と共に発展してきた駅で、実は京神電鉄が主導的であった場面は無い。新神津駅に改称されたのは、経営統合を経て、昭和55年10月の全線直通化の時点である。詳細は「新神津駅の発展」を参照。

(7)神津駅

神津駅の発展/神津駅S39.gif
昭和39年ごろの神津駅
 京神電鉄神津駅は新幹線建設の際に一度駅の姿が大きく変わっており、紅林複々線化ヨンサントオ協定湾岸新線建設といったプロジェクトがその後に続いている。詳細は「神津駅の発展」を参照。

3.京神電鉄のダイヤ

(1)昭和39年ごろ

紅林複々線化/haisen-keisin1.gif
図1 京神電鉄の配線図(昭和39年ごろ)

 新幹線の建設に伴い神津駅の改良工事が完成した後の線路配線。路線長が短いため整備機能のある車両基地三泉駅のみにある。この基地がこれまた恐ろしく使い勝手が悪く、その改善は京神電鉄にとって急務であった。藤田駅には神津方の拠点となる電留線があり、現在に至るまで有効に活用されている。神宮線紅林駅武蔵神宮駅)間は単線で、当然ながら東城学園駅紅林検車区もまだ無い。

京神電鉄/京神電鉄停車駅パターンS39.gif
図2 昭和39年ごろの京神電鉄のダイヤパターン

 朝ラッシュ時の急行は途中の4駅で先行列車を追い抜いて神津→新宿間を32分で走行していた。日中の急行は同30分で、わずか2分の所要時間増に留まっており、このころの京神電鉄がいかに他路線との競合を強く意識していたかが判る。

(2)昭和40年10月改正…紅林複々線化着工

 旗塚駅複々線化工事に伴って待避不能になったため(詳細は別項を参照)、朝ラッシュ時に行っていた同駅での待避が行われなくなり、同時間帯の急行の所要時間が33分に伸びた。ところが、各停の所要時間は逆に短くなり、ダイヤ担当者に「優等列車の待避はやらないほうが効率的になるんじゃね?」という教訓を与えることになった(ただし、優等列車の速達性は、鉄道会社の競争力の源泉であるから、平行ダイヤにすればいいというものでもない)

(3)昭和45年2月改正…緩行線高架化切換

紅林複々線化/緩行線運転時代の配線.gif
京神電鉄の配線図(昭和46年ごろ)

 紅林複々線化の前段階として緩行線の高架化が完成し線路切換を実施。通過待避型の駅が増えて各停の所要時間が延び、いずれ複々線化で改善されるにしてもこれは地元には少々酷であった。

 神宮線には東城学園駅が開業し、車両基地の位置も変わるなど、京神電鉄が徐々に変貌していく様子が判る。


京神電鉄/京神電鉄停車駅パターンS45-02.gif
昭和45年2月改正によるダイヤパターン

 また、湾岸新線建設が本格化し乾駅が待避不能となったに伴い、停車駅分担型の千鳥式ダイヤを朝ラッシュ時に導入。通勤急行の所要時間を33分、通勤準急は同34分として、平行ダイヤ化によるスピードダウンを必死で回避したのであった。このときの経験が、後に東京線輸送力増強時に導入された朝ラッシュ時ダイヤにも反映されている。

(4)昭和47年10月改正…紅林複々線化完成

紅林複々線化/haisen-keisin3.gif
京神電鉄の配線図(昭和47年10月時点)

 京神電鉄の念願であった紅林複々線化が完成し、複々線区間での各停の速達列車待避が解消。都内の沿線各駅の利便性がぶっちぎりに向上した。ちなみに、日中の急行の神津→新宿間の所要時間は29分、朝ラッシュ時の通勤急行は同32分と、旗塚駅が停車駅に加わっても急行線区間でのスピードアップが効いている。また、恵比寿駅旗塚駅間の恵比寿支線が開業し渋谷駅の混雑緩和が果たされた。


京神電鉄/京神電鉄停車駅パターンS47-10.gif
昭和47年10月改正によるダイヤパターン

 複々線化の恩恵は、日中の増発という形でも現れた。京神電鉄のダイヤが20分パターンから15分パターンに変更され、各停が毎時6本から8本に増発されている。

 ただし、そのしわ寄せは紅林以遠に及び、同区間では日中で急行4本/時+準急4本/時と速達列車に統一されてはいるが列車本数そのものは減便された。複々線化を果たしてもすぐには輸送力を増強するわけにはいかない、という当時の京神電鉄の苦しい要員事情が窺える。

(5)昭和50年3月改正…営団谷町線霞ヶ関開業

京神電鉄/京神電鉄停車駅パターンS50-03.gif
昭和50年3月改正によるダイヤパターン

 昭和50年3月に営団谷町線の恵比寿~霞ヶ関間が開業。このときのダイヤは、恵比寿止まりであった各停を延長運転したのみで、骨格は変わらなかった。京神電鉄は、翌昭和51年4月の経営統合をこのダイヤ形態で迎えることになる。その後のダイヤの動向はダイヤの変遷Ⅰ以降を参照されたい。

4.京神電鉄の車両

4000系/tc_keishin3000_old.gif
京神電鉄3000系

 京神電鉄は、路線建設の基本思想が「第二南街道本線」であったため、戦前から省線車両に類似した設計の車両を投入しており、戦後も昭和30年代後半になると旧型車(国鉄70系電車の類似品)ながら20m級3扉ロングシート車で統一されていた。ただし、路線が短く、編成両数ではなく運転頻度で輸送力を確保する方針を採用していたが故に長大編成化が遅れ、昭和41・42年度に新型車3000系(後の4000系)を8両×6編成ずつ計12編成投入してようやく6両から8両編成への増強を図ったのである。これによってヨンサントオ協定の協議の際に青海鉄道水澄鉄道と最長編成両数を8両に揃えることになったわけだが…後に関係者はこの決定を死ぬほど後悔することになる。

 それはさておき、それ以降の旧型車の淘汰は地下鉄直通仕様車1000系、および3社共通仕様車2000系で進められた。


1000系/tc1000_oldversion.gif
1000系

 1000系は昭和46年度に6両×10編成が出現、その翌年度の上半期にさらに10編成が追加されて、昭和47年10月の紅林複々線化の完成時点で緩行線の運用を同形式で統一することができた。6両編成とされたのは、4扉化によって当面の輸送需要を満たせるからだ、と説明されたが、実際には高価な1000系を8両編成にするだけの予算が無かったのである(8両化は南西急行発足後となった)


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2000系

 2000系は、昭和47年度に試作車4両×2編成が京神電鉄に搬入され、量産車は翌48年度に4両×10編成が登場している。つまり、紅林複々線化に間に合っていないわけで、これは、複々線化後に京神電鉄の車両基地が三泉紅林の2箇所となって車両収容力に余裕が出るを待ったためと言われている。ちなみに、紅林複々線化完成時点での急行線の所要運用数は15編成であり、急行線の運用に充当できる編成は3000系8両×12編成と2000系8(=4+4)両×6編成分となり18編成確保できた。


 南西急行発足直前の昭和50年度末時点における京神電鉄の車両数は264両。青海鉄道が168両、水澄鉄道が136両であった。鉄道会社の規模の一端を示す数字として車両数を参照すれば、経営統合時の前身3社の勢力比が見えてくる。



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