ヨンサントオ協定
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昭和40年5月にX県が発表した「X県鉄道網再編計画」に基づき、京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道の3社は、経営統合に向けた具体的な協議に入った。しかし、経営環境・企業文化がまるで異なる3社に新規路線(湾岸新線)を加えての経営統合は、関係者が想像していた以上の難問であり、妥結までに3年間を要した。協定の内容は昭和43年10月に公表され、その時期がちょうど国鉄の43-10ダイヤ白紙改正に重なったため、ヨンサントオ協定と呼ばれるようになった。 |

水澄鉄道が美咲乗り入れを果たした直後の路線図。当時、美咲市には私鉄が4路線も集まっていたが、それぞれがバラバラにターミナルを擁しており利便性は最悪の状態であった。 |
1.南西急行の前身3社
南西急行電鉄の母体となった3社については各項目を参照されたい。
2.X県内の鉄道の復興
X県は、平野部が少なく狭い海岸部に人口が集中する県の地勢では道路より鉄道が有効であるとの判断に基づき、戦後の昭和22年8月に「県交通網再建計画」を打ち出した。この計画の骨子は、南街道本線の美咲までの複々線化である。また、県内の私鉄各線については、特に青海鉄道と水澄鉄道を南街道本線のフィーダー線として機能強化することが謳われていた。
戦後の県内鉄道網の復興は、基本的にこの計画に基づいて推し進められ、南街道本線成原までの複々線化(昭和28年11月)、青海鉄道美咲~八浦間の複線化(昭和28年12月)、東京から青海・水澄への直通準急(のちの急行「青海」「水澄」)の運転開始(昭和29年4月)…と進展していった。
3.新幹線のルート誘致
次にX県が画策したのは、中央新幹線の県内縦断誘致である。中央新幹線(昭和39年10月開業)は、ルート選定の際に南街道本線沿いの「海ルート」と中央本線沿いの「山ルート」の沿線自治体の間で激しい誘致合戦を巻き起こした。しかし、戦前の「弾丸列車計画線」が軍事上の配慮(太平洋沿岸では艦砲射撃によって鉄道ルートが寸断される危険性がある)から山ルートで計画され、一部トンネルの工事も行われていたことから、中央新幹線は山ルートを採ることとなった。ただし、当時の沿線人口の分布から、東京付近では、東京駅から神津へ向かい、そこから中央本線の甲府に至るルートが選定されている。
この結果、X県はとりあえず県北部に新幹線が通ることになって国土軸の交通体系から取り残されずに済んだわけだが、県の南部・西部の交通のメインラインは国鉄南街道本線1本ということになり、南街道本線に頼りすぎる形になることが懸念された。
また、新幹線の建設が始まると、南街道本線の成原以遠の複々線化工事は「二重投資になる」との理由で凍結されてしまった(国鉄は南街道本線の複々線化の目的を長距離列車と近郊列車の分離に置いていた。そのため、新幹線が開業して大阪方面への長距離列車が減ると複々線は余剰設備になると主張した)。このことが国鉄に対するX県の不信感の原因となったのである。
4.当時の県内私鉄の状況


昭和30年代後半の時点で県内に存在していた鉄道会社は、京神電鉄、湘南電鉄、弦崎鉄道、青海鉄道、水澄鉄道、八浦鉄道、水澄登山電鉄の各社である。そのうち、京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道の3社は軌間1067mm、架線電圧1500V、車体長20mで、ハードウェアの基本仕様面では統一されてはいたが、各線のターミナルはバラバラに立地していた(青海鉄道と水澄鉄道の美咲駅は国鉄駅を挟んで反対側にあった)。また、湘南電鉄と弦崎鉄道は軌間1435mm、架線電圧600Vで、路面電車から都市鉄道へ脱皮する過渡期にあり、県内交通の幹線とするには能力不足であった。要するに、県内の各社は、それぞれが独立した路線としてしか機能しておらず、これがX県全域の発展を著しく阻害する要因と見られていたのである。
5.X県鉄道網再編計画
この計画は、新幹線のルート誘致活動が「他力本願に過ぎた」ことを教訓に、X県内の私鉄各線を県自身が強化・再編すべく、昭和40年5月にブチあげたものである。発表当時は大反響を呼んだ。これには湘南電鉄の高速化と弦崎鉄道との直通運転(現在の南武鉄道につながる)も盛り込まれていたが、それは割愛して現在の南西急行に直接関連する内容を抜き出してみると以下のようになる。
この大プロジェクトは、美咲空港(当時、政府が建設を決定していた)の開港予定に合わせて昭和51年完了が目標とされたが、結局、昭和53年の開港時点では湾岸新線は部分開業の状態となり、一連の工事完工は昭和55年までずれ込むことになる。
この計画の目的は、県および各自治体の開発計画と鉄道の整備計画を有機的に連繋させて、低コストで最大の効果を得ることにあるとされた。しかし、実態としては、県内の交通各社を県のコントロール下に置くために「資金は出すが口はそれ以上に出す」体制を整えることに主眼があった。また、南街道本線の輸送改善を進めない(当時の国鉄が多くの案件を抱えていて南街道本線ばかりに力を入れられなかったという事情もあるのだが)国鉄に対する不信感も、県に独自の鉄道建設を構想させる要因となっていた。
6.湾岸地区開発計画
X県鉄道網再編計画のもうひとつの目的は、神津と美咲の間の湾岸エリアを広範囲に埋め立てて用地不足を解消するため、同地区の足となる新設鉄道の経営の受け皿を既存の私鉄各社に持たせようとしたところにある。この経緯については別項を参照されたい。
7.美咲総合駅について

昭和30年代末期、美咲市内には図2-1のように湘南電鉄、弦崎鉄道、青海鉄道、水澄鉄道の4つの私鉄がそれぞれ別個のターミナルに乗り入れ、これらの鉄道施設が市街地内に大きなスペースを占めて市の発展を阻害していると指摘されていた。美咲は戦時中は軍都であるが故に米軍の空襲に遭ったが、その復旧の際に現状復帰を優先させたためにこのような事態になってしまったのである。
「X県鉄道網再編計画」は、そこへさらにもうひとつの路線(すなわち湾岸新線)を持ち込もうとするものであったから、その計画の中に、美咲市内にバラけた私鉄ターミナルの整理が含まれるのは必然だった。その目的のもとに立案された「再編計画」の初期案は図3のようなものであった。
当時、美咲市は新幹線のルートから外れたことで今後の発展が行き詰るのではないかという危機感を持っており、市域を拡大発展させるために既存駅(美咲駅)とは別の拠点駅(美咲市駅)を設けることを考えていた。これは、半ば地元の経済界の意思でもあった。また、県は前述の国鉄への不信感から、国鉄との関係を疎にすることを基本方針としていた。図3を見れば、国鉄の設備に極力影響を与えないことを一つの目的としているのが判る。
一方、青海鉄道・水澄鉄道は、「再編計画」検討の会合の中でこの案に猛烈に反対した。青海鉄道にしてみれば、長年かけて築き上げてきたターミナルである美咲駅を放棄させられ、かつ国鉄との結節点を失うことになる。水澄鉄道側はもっと悲惨で、昭和33年に開業させたばかりの美咲~矢積間の起点側2駅が造り直しになるのである。美咲駅はいずれそうなる見込みであったが、館川町駅までが含まれるというのは想像の域を超えていた。


当時の両社が構想していたのは、国鉄美咲駅の貨物ヤード用地に新駅を設けるという、現在の姿につながるものである。この新駅を両社は「総合駅」と称した。青海鉄道・水澄鉄道から見れば、自社が実際に直通運転も行っている南街道本線との接続を軽視するなぞ論外であって、両社は関係者間の会合の中で鉄道会社としての立場を根気よく主張し続けなければならなかった。特に、駅の分散配置を望む地元財界に総合駅のメリットを理解させるのは尋常ではない苦労を伴ったという。
それが功を奏し、昭和43年10月の協定締結の折には、国鉄美咲駅に併設し湾岸新線・青海鉄道・水澄鉄道のターミナルを一つにまとめた総合駅の構想が盛り込まれたのである。総合駅建設の経過については別項を参照。
8.ヨンサントオ協定と湾岸急行電鉄
「湾岸地区新線・美咲総合駅建設および京神電鉄・青海鉄道・水澄鉄道の経営統合に関する協定」すなわちヨンサントオ協定は、
以上を骨子として、経営統合に至るまでの条件設定がなされ、その大部分は社員の賃金と労働条件に割かれている。
この協定に基づき、京神電鉄10%:青海鉄道10%:水澄鉄道10%:X県30%:地元財界40%の出資による湾岸急行電鉄株式会社が昭和43年10月に発足した。

ただし、かける時間としては余裕があるようでも、人員面では余裕は無かった。湾岸新線は完全な新線であり、当然それを運営する人員が増強されるべきであったが、この協定では、人件費を圧縮するために湾岸急行電鉄を3社からの出向社員のみで構成し、将来的にも既存3社の人員で都合4社分の業務を行うことになっていた。このことが、労働組合との交渉を難航させ、長期の準備を必要とする原因になった。また、現在まで続く、可能な限り省力化・省人化を追及する南西急行の企業方針の基礎にもなったのである。
この後、既存3社と湾岸急行電鉄の計4社では経営統合に向けた共同作業が進んでいくわけだが、その詳細は別項に譲る。